2012年12月20日
なぜ政権交代と言わない
なぜ
自民党→民主党 は政権交代なのに
民主党→自民党 は政権交代じゃないんだ?
マスコミがいかに自民党的政治を中心に捉えているかよくわかる表現だ。
そうでなければ、自民党→民主党を政権交代なんて恥ずかしくて言えない。
今回の自民党の政権奪取劇に「政権交代」なんて言葉を使わないのと同様に
自民党→民主党 は政権交代なのに
民主党→自民党 は政権交代じゃないんだ?
マスコミがいかに自民党的政治を中心に捉えているかよくわかる表現だ。
そうでなければ、自民党→民主党を政権交代なんて恥ずかしくて言えない。
今回の自民党の政権奪取劇に「政権交代」なんて言葉を使わないのと同様に
2011年08月31日
足し算のやり方を知らない人々
1993年、国会議員の数は衆議院で512人、参議院で252人、衆参あわせて764人だった。
この約20年で国会議員は衆議院は32人減り480人、参議院は10人減り242人、衆参あわせて42人減って、722人である。この間、選挙制度は衆議院で中選挙区制から小選挙区制に変わった。
中選挙区制の頃と小選挙区制下の今を比べると、国会や政府の問題処理能力はどちらが高かったであろうか。また、社会の閉塞感の度合いはどちらが高いであろうか。
いろんな意見があるだろうが、少なくともこんな「メリーゴーランド」状態は中選挙区制下ではあまり見られなかった。このことだけでも、オレは今のほうが問題処理能力は低いと思っている。
また、閉塞感に関しても今のほうが強いと感じる人が多いのではないか。
(ただし、この点に関しては何か統計を取ったわけではないので、根拠はあまりないのだが)
そんな意味で、議員が多かった時のほうが、小選挙区制下より中選挙区制下の時のほうが、政府は政府然としていたし、国会は国会然としていたとも言えるだろう。
ところが、である。
こんな簡単な足し算ができずに(せずに?)、評論家や議員がテレビで偉そうに、「国会議員が多いのは予算の無駄だから減らしましょう」なんて言っているのだ。
小選挙区制下において首相のメリーゴーランド状態が続いたこと、議員が少なくなってきた時期と政府の問題処理能力が低下してきた時期が重なっていることについて、国会議員を減らせという人たちは、どう答えるのだろう?
いまだに国会議員が多すぎるから減らせ、という意見がテレビで聞かれるとは思わなんだ。
そんな奴らは、そう主張することでうまい汁を吸えるから言っているのだ。
そんな利益がないような一般庶民がこんな物言いに騙されてはいけない。自分の首を絞めることに他ならないからだ。
自分たちにとって日本がもっと住みよい国になってほしいと願うなら、今、選挙制度に関してすべきなのは、小選挙区を維持し議員定数を減らすことではなくて、中選挙区制に戻して議員を増やし様々な意見(もちろんその中には自身の政治的要求も含まれる可能性が高くなる!!)を国会に反映させることでないかい?
民主党は第二自民であることや、首相が野田だろうと野畠だろうと山田だろうと(川田でもいいよ)民主党である限り大した違いがないことは、民主党から中選挙区制に戻そうという声が上がらないことからはっきりしている。
この約20年で国会議員は衆議院は32人減り480人、参議院は10人減り242人、衆参あわせて42人減って、722人である。この間、選挙制度は衆議院で中選挙区制から小選挙区制に変わった。
中選挙区制の頃と小選挙区制下の今を比べると、国会や政府の問題処理能力はどちらが高かったであろうか。また、社会の閉塞感の度合いはどちらが高いであろうか。
いろんな意見があるだろうが、少なくともこんな「メリーゴーランド」状態は中選挙区制下ではあまり見られなかった。このことだけでも、オレは今のほうが問題処理能力は低いと思っている。
また、閉塞感に関しても今のほうが強いと感じる人が多いのではないか。
(ただし、この点に関しては何か統計を取ったわけではないので、根拠はあまりないのだが)
そんな意味で、議員が多かった時のほうが、小選挙区制下より中選挙区制下の時のほうが、政府は政府然としていたし、国会は国会然としていたとも言えるだろう。
ところが、である。
こんな簡単な足し算ができずに(せずに?)、評論家や議員がテレビで偉そうに、「国会議員が多いのは予算の無駄だから減らしましょう」なんて言っているのだ。
小選挙区制下において首相のメリーゴーランド状態が続いたこと、議員が少なくなってきた時期と政府の問題処理能力が低下してきた時期が重なっていることについて、国会議員を減らせという人たちは、どう答えるのだろう?
いまだに国会議員が多すぎるから減らせ、という意見がテレビで聞かれるとは思わなんだ。
そんな奴らは、そう主張することでうまい汁を吸えるから言っているのだ。
そんな利益がないような一般庶民がこんな物言いに騙されてはいけない。自分の首を絞めることに他ならないからだ。
自分たちにとって日本がもっと住みよい国になってほしいと願うなら、今、選挙制度に関してすべきなのは、小選挙区を維持し議員定数を減らすことではなくて、中選挙区制に戻して議員を増やし様々な意見(もちろんその中には自身の政治的要求も含まれる可能性が高くなる!!)を国会に反映させることでないかい?
民主党は第二自民であることや、首相が野田だろうと野畠だろうと山田だろうと(川田でもいいよ)民主党である限り大した違いがないことは、民主党から中選挙区制に戻そうという声が上がらないことからはっきりしている。
2009年07月25日
ほっだいテレビがエライなが?
先日のことである。
夕方6時台にある地方の報道番組において、衆議院選挙に立候補予定者を扱うシリーズ特集があった。
その日は、自民、共産、社民(民主の支援を受けている)、幸福実現の4党が出馬を予定している選挙区だった。
自民の候補予定者は、全国でも有名で何期も衆議院議員をした人で、今の自民にあって、比較的まともと目されている人だ。以下j氏とする。
社民の候補が民主の支援を受けているのは、この県の社民と民主が選挙協力をするということで、この選挙区では社民の候補が、県内の他の選挙区では民主の候補が立候補を予定している。以下s氏とする。
共産の予定者はk氏、幸福実現の予定者はh氏とする。
さて問題はこれらの立候補に割いた時間である。
j氏に関しては、だらだらと県知事戦の様子から何まで、非常に長い時間を割いていた*のに対し、k氏に関しては、街頭演説をしているシーンと簡単なプロフィールだけ。s氏に関しては、j氏ほどではないがそれなりに時間が割かれていた。h氏に関しては大体k氏と同じような時間配分であったように感じた。
オレは『立候補予定者の顔ぶれ』と銘打ったコーナーで、時間配分に差があることに疑問を抱いたので、電話して時間配分に差がある根拠を聞いてみた。
まず出てきた答えは、「確かに時間配分に差をつけた」とのこと。
それからその根拠としては「編集権」だそうだ。
特に今は告示前だし、告示後であっても候補者の時間配分に差を付けることは「編集権」として認められている、とのこと。
放送法と矛盾しないかと聞いたところ矛盾はしないそうだ。
さらにこの放送局では「編集」する基準として実績や状況の流れを参考にして時間配分をしたそうだ。
実績や状況の流れを基準にするなら、j氏やs氏に多くの時間が割かれるのは当たり前だろう。特に現職であるj氏などはこの選挙区において、ただ一人の実績を保有する立候補予定者で、他3名は皆新人なのだから衆議院における実績などありはしない**。しかもこのj氏は全国的にもかなり有名な議員で『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介するコーナーならば、この立候補予定者が一番短時間でいいはずである。
s氏に関しても、二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている状況では、民主の推薦を受けているs氏が自動的に時間が長くなってしまう。
この選挙区ではこの二人に焦点が当てられて選挙報道がなされるのは目に見えている。
ならばなぜ『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介する企画などをしなければならないのだ?この企画でj氏とs氏に多くの時間を割く意味が全くわからない。あのような時間配分でk氏とh氏の顔ぶれがどれだけ広まったというのだ?
この企画をしたものは、この基準にもっと批判的であるべきではなかったのか?
そもそも二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている今のような状況下において、埋没しそうな少数意見を発掘してきたり、拾い上げて紹介したりするのが報道の仕事ではないのか?
それを「編集権」を盾に放棄するようでは報道とは言えないだろう。広告塔と名前をかえてはいかがか。
…まあ、言いたいことは山ほどあるけれど、一つ確かなことは「今の報道(特にテレビ)はバイアスがかかっている=偏っている」ということを自ら認めている、ということだろう。
もちろん全く偏っていない報道などアリはしないのだが、なるべく偏らないようにしようと努力するのがジャーナリズムではないのか?
テレビを見る側も、「私たちは偏っていますよ」といっている連中の言うことを鵜呑みにしてはいけないということがよくわかったやり取りだった。
*実際に時間を計ったわけではないが、体感としてはこのコーナーの半分以上の時間をとっていたように感じた。
**とはいっても実績という言葉も非常にあいまいで、j氏およびs氏に関しては衆議院以外の活動も含め実績として扱っていたのに対し、k氏およびh氏に関してはまるで実積がないような扱いであった。どの候補予定者もそれぞれの立場でいろいろ活動してきたから立候補しようとしてるんだろうに…
夕方6時台にある地方の報道番組において、衆議院選挙に立候補予定者を扱うシリーズ特集があった。
その日は、自民、共産、社民(民主の支援を受けている)、幸福実現の4党が出馬を予定している選挙区だった。
自民の候補予定者は、全国でも有名で何期も衆議院議員をした人で、今の自民にあって、比較的まともと目されている人だ。以下j氏とする。
社民の候補が民主の支援を受けているのは、この県の社民と民主が選挙協力をするということで、この選挙区では社民の候補が、県内の他の選挙区では民主の候補が立候補を予定している。以下s氏とする。
共産の予定者はk氏、幸福実現の予定者はh氏とする。
さて問題はこれらの立候補に割いた時間である。
j氏に関しては、だらだらと県知事戦の様子から何まで、非常に長い時間を割いていた*のに対し、k氏に関しては、街頭演説をしているシーンと簡単なプロフィールだけ。s氏に関しては、j氏ほどではないがそれなりに時間が割かれていた。h氏に関しては大体k氏と同じような時間配分であったように感じた。
オレは『立候補予定者の顔ぶれ』と銘打ったコーナーで、時間配分に差があることに疑問を抱いたので、電話して時間配分に差がある根拠を聞いてみた。
まず出てきた答えは、「確かに時間配分に差をつけた」とのこと。
それからその根拠としては「編集権」だそうだ。
特に今は告示前だし、告示後であっても候補者の時間配分に差を付けることは「編集権」として認められている、とのこと。
放送法と矛盾しないかと聞いたところ矛盾はしないそうだ。
さらにこの放送局では「編集」する基準として実績や状況の流れを参考にして時間配分をしたそうだ。
実績や状況の流れを基準にするなら、j氏やs氏に多くの時間が割かれるのは当たり前だろう。特に現職であるj氏などはこの選挙区において、ただ一人の実績を保有する立候補予定者で、他3名は皆新人なのだから衆議院における実績などありはしない**。しかもこのj氏は全国的にもかなり有名な議員で『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介するコーナーならば、この立候補予定者が一番短時間でいいはずである。
s氏に関しても、二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている状況では、民主の推薦を受けているs氏が自動的に時間が長くなってしまう。
この選挙区ではこの二人に焦点が当てられて選挙報道がなされるのは目に見えている。
ならばなぜ『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介する企画などをしなければならないのだ?この企画でj氏とs氏に多くの時間を割く意味が全くわからない。あのような時間配分でk氏とh氏の顔ぶれがどれだけ広まったというのだ?
この企画をしたものは、この基準にもっと批判的であるべきではなかったのか?
そもそも二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている今のような状況下において、埋没しそうな少数意見を発掘してきたり、拾い上げて紹介したりするのが報道の仕事ではないのか?
それを「編集権」を盾に放棄するようでは報道とは言えないだろう。広告塔と名前をかえてはいかがか。
…まあ、言いたいことは山ほどあるけれど、一つ確かなことは「今の報道(特にテレビ)はバイアスがかかっている=偏っている」ということを自ら認めている、ということだろう。
もちろん全く偏っていない報道などアリはしないのだが、なるべく偏らないようにしようと努力するのがジャーナリズムではないのか?
テレビを見る側も、「私たちは偏っていますよ」といっている連中の言うことを鵜呑みにしてはいけないということがよくわかったやり取りだった。
*実際に時間を計ったわけではないが、体感としてはこのコーナーの半分以上の時間をとっていたように感じた。
**とはいっても実績という言葉も非常にあいまいで、j氏およびs氏に関しては衆議院以外の活動も含め実績として扱っていたのに対し、k氏およびh氏に関してはまるで実積がないような扱いであった。どの候補予定者もそれぞれの立場でいろいろ活動してきたから立候補しようとしてるんだろうに…
2009年07月22日
なんだかなぁ
政権選択選挙だの、政権交代選挙だの…
多くの場合、選挙(特に衆議院選挙)であれば政権交代の可能性はいつだってあるし、選挙ってそもそも政権を選択するためにあるんじゃないの?
さも「今回は特別」だとでも言いたそうに、自公民およびマスコミが政権選択選挙、政権交代選挙連呼してますが、普通は選挙の度に政権交代はあり得るものだし、有権者は投票によって政権を選択しているのだ。その結果、たまたま自民が長い間、政権に居れただけのことである。だから「今回の争点は政権交代です。」なんていう議員や政治評論家がいたら、そいつは議会制民主主義を理解してないし、議員とは何かすらわかっていない。「今回の争点は政権交代です。」なんていうマスコミがあったら、ジャーナリズムを名乗る資格はないだろう。
政権交代は争点にはなり得ない。通常は、ある(複数の)争点で争った結果によって政権交代がおこるからだ。
だから「今回の争点は政権交代です。」というのは日本語として成り立っていない、意味のない言葉なのだ。
今日一日こんな基本的なこともわかっていない言葉がテレビの中で飛び交っていて、且つ、意味有り気に捉えられているような雰囲気があり、非常にうんざりさせられた。
多くの場合、選挙(特に衆議院選挙)であれば政権交代の可能性はいつだってあるし、選挙ってそもそも政権を選択するためにあるんじゃないの?
さも「今回は特別」だとでも言いたそうに、自公民およびマスコミが政権選択選挙、政権交代選挙連呼してますが、普通は選挙の度に政権交代はあり得るものだし、有権者は投票によって政権を選択しているのだ。その結果、たまたま自民が長い間、政権に居れただけのことである。だから「今回の争点は政権交代です。」なんていう議員や政治評論家がいたら、そいつは議会制民主主義を理解してないし、議員とは何かすらわかっていない。「今回の争点は政権交代です。」なんていうマスコミがあったら、ジャーナリズムを名乗る資格はないだろう。
政権交代は争点にはなり得ない。通常は、ある(複数の)争点で争った結果によって政権交代がおこるからだ。
だから「今回の争点は政権交代です。」というのは日本語として成り立っていない、意味のない言葉なのだ。
今日一日こんな基本的なこともわかっていない言葉がテレビの中で飛び交っていて、且つ、意味有り気に捉えられているような雰囲気があり、非常にうんざりさせられた。
2009年07月17日
もともと風なんか吹いてなかった
追い風だったというのなら、テレビで、新聞で、ラジオで、どの程度共産が取り扱われていたか、数字を出して欲しい。
民主や自民と同程度には取り扱われていたんだろうな。
オレが見ていた限りでは一度も共産の名前は出てこなかったが。
共産に追い風が吹いていたのに戦術が悪くて議席を減らしただの、政権交代を主張して民主の批判をして足を引っ張るだの、はては自公の補完勢力だのいう人たちには、きっと毎日のように共産の名を、民主や自民が取り扱われるのと同程度、テレビで見る事ができたんだろう。
選挙の度に思うのだが、財界およびマスコミは当然のこととして、なぜ普段自公の批判をしているブロガーたちの多くはこうも民主に甘く、共産に辛いのだろうか。
民主は幾度となく国政、地方問わず有権者の期待を裏切ってきたではないか。その実績を見ずしてどういう投票行動をとろうというのだ?
都議会では石原都知事を助けてきたのは自公に加え民主ではなかったのか?
自公と民主一体どこがどう違うというのか。
「よりマシ」だから民主に投票する?
「一番マシ」に投票すべきではないのか?
「一番マシ」が勝てそうにないから「よりマシ」な民主を選ぶという人は共産を批判できないだろう。
「一番マシ」をとおす努力を最初からあきらめているのだから。
都知事選の時もそうだったが、どうも共産に対して自分のことは棚にあげる、上から目線的な批判が多いように感じる。
そしてそういった批判をする人たちは、共産が自民および民主と公共の電波の上で、同じ土俵の上にたたされていないという現実を無視する。
「政権交代」の主張で忙しい人たちは、90年代前半の「政権交代」で何があったか、という現実を見ようとはしない。
その裏で「よりマシ」な選択が「現実的な」判断だと考え、共産支持者にその「現実的な」判断を迫る。時には「自公の補完勢力だ」などという言葉までをも使って。
これはダブルスタンダードというものではないのか?
結局、日本に議会制民主主義が根付くのはまだまだ先のことなんだろうなぁ…とつくづく考えた。
民主や自民と同程度には取り扱われていたんだろうな。
オレが見ていた限りでは一度も共産の名前は出てこなかったが。
共産に追い風が吹いていたのに戦術が悪くて議席を減らしただの、政権交代を主張して民主の批判をして足を引っ張るだの、はては自公の補完勢力だのいう人たちには、きっと毎日のように共産の名を、民主や自民が取り扱われるのと同程度、テレビで見る事ができたんだろう。
選挙の度に思うのだが、財界およびマスコミは当然のこととして、なぜ普段自公の批判をしているブロガーたちの多くはこうも民主に甘く、共産に辛いのだろうか。
民主は幾度となく国政、地方問わず有権者の期待を裏切ってきたではないか。その実績を見ずしてどういう投票行動をとろうというのだ?
都議会では石原都知事を助けてきたのは自公に加え民主ではなかったのか?
自公と民主一体どこがどう違うというのか。
「よりマシ」だから民主に投票する?
「一番マシ」に投票すべきではないのか?
「一番マシ」が勝てそうにないから「よりマシ」な民主を選ぶという人は共産を批判できないだろう。
「一番マシ」をとおす努力を最初からあきらめているのだから。
都知事選の時もそうだったが、どうも共産に対して自分のことは棚にあげる、上から目線的な批判が多いように感じる。
そしてそういった批判をする人たちは、共産が自民および民主と公共の電波の上で、同じ土俵の上にたたされていないという現実を無視する。
「政権交代」の主張で忙しい人たちは、90年代前半の「政権交代」で何があったか、という現実を見ようとはしない。
その裏で「よりマシ」な選択が「現実的な」判断だと考え、共産支持者にその「現実的な」判断を迫る。時には「自公の補完勢力だ」などという言葉までをも使って。
これはダブルスタンダードというものではないのか?
結局、日本に議会制民主主義が根付くのはまだまだ先のことなんだろうなぁ…とつくづく考えた。