2015年05月24日

産経の電波な記事

とりあえず、備忘録のメモとして。

【阿比留瑠比の極言御免】
「世界征服のための戦争だった」 荒唐無稽な「共同謀議」史観

 20日の党首討論を聞いて耳を疑った。共産党の志位和夫委員長が、日本に降伏を求めた1945年7月のポツダム宣言を引用し、安倍晋三首相にこう迫った場面でのことだ。

 「(宣言は)日本の戦争について、世界征服のための戦争だったと明瞭に判定している。宣言の認識を認めるのか認めないのか」

 確かにポツダム宣言第6項には、志位氏の指摘のように「日本国民を欺瞞(ぎまん)しこれをして世界征服の挙にいづるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず」とある。とはいえ、志位氏はこの認識が絶対だと本当に思っているのか。

 志位氏は討論後、記者団にまるでポツダム宣言が民主主義の聖典であるかのようにこう称揚もした。

 「日本の戦後民主主義の原点中の原点がポツダム宣言だ」「ポツダム宣言は戦争認識の原点で、誰も否定できない」

 だが、戦前の日本は果たして「世界征服」など目指していたのだろうか。対英米戦は両国などの対日禁輸政策に追い詰められた日本が、窮余の策として選んだ道ではないか。

 政府高官は討論終了後、周囲にこう苦笑していた。

 「どこの国の政治家ですか、という質問だった。日本が世界征服をたくらんだなんて、どれだけリアリティー(現実味)のない話なんだ。テレビを見ていた国民もそう思っただろう」

 ポツダム宣言は、戦いを有利に進めていた日本の戦争相手国が出したものであり、日本を「悪者」として位置付けるのは当然だといえる。また、昭和2年に田中義一首相(当時)が天皇に上奏したものとされ、日本の世界征服計画を記した「田中上奏文」が米英などの対日認識に大きく影響していた可能性もある。

 田中上奏文については、東京裁判でも取り上げられたが、日本側弁護団によって中国側が作った偽書であることが立証されている。

 東京裁判は、先の大戦は日本の軍国主義者たちの「共同謀議」に基づく侵略計画に沿って実行されたという見方を前提にして始まった。検察側は、それを裏付ける証拠として田中上奏文を持ち出したが、裁判途中で偽書と気づいて追及をやめたのである。

 志位氏が引用したポツダム宣言第6項は、この東京裁判でもインド代表のパール判事らから数々の反論がなされた荒唐無稽な「共同謀議」史観に貫かれている。どうして今さら、そんな珍妙な認識を日本が認めないといけないのか。

 ここで思い出すのは、これまで国会で繰り返されてきた「日本は東京裁判を受諾したのだから、その歴史判断も受け入れなければならない」という議論だ。

 国を個人に置き換えて考えてみたい。裁判を経てある判決を言い渡された場合、法治国家の一員である以上、当然、その刑に服さなければならない。

 だが同時に、外形的に刑を受け入れても、内心で裁判官の判断を不服に思うのも、自身は実は無罪だと考えるのもその人の自由であるはずだ。憲法19条「思想および良心の自由」を持ち出すまでもない。

 東京裁判を受け入れたからといって、その思想や歴史観、政治的背景、各国の都合や思惑を全部ひっくるめて引き受けることなどできようはずもない。

 それが可能だと考える人は、他者の内心に容易に手を突っ込み改変できると信じる危険な傾向を持つ人物だということにはならないか。(政治部編集委員)

http://www.sankei.com/premium/news/150522/prm1505220009-n1.html

より引用


…この程度の文章で3ページに分けるなよ。
突っ込みどころ満載過ぎて面倒。
とりあえず、





ポツダム宣言の認識を受け入れない=戦後の国際秩序を受け入れない=日本は戦後国際秩序を受け入れない、ってことだからね。つまり、今の国際秩序の上で行われている様々な事や、今の国際秩序の中で成立・運営している国家と価値観を共有しない、ってこと。

阿比留氏や産経はこのように書くのなら、グダグダ言ってないで連合国と戦争し直してこいよ。
ポツダム宣言の認識を受け入れない、と言うのはそういうことだ。
ただし『日本』は宣言を受け入れ、同時にその価値観も共有している(日本国憲法として明文化)のだから、日本国も連合国側に立つことになるけれどね。
ポツダム宣言を受け入れ、価値観を共有している日本国を貶めたり、巻き込んだりするなよ。

  


Posted by はぬる at 23:50Comments(0)雑感・いろいろ

2015年04月05日

都市化と時間感覚について

さっき「みやちゃん、アツシの南米便り」というラジオ番組で南米の時間感覚と日本の時間感覚の違いについて話していた。大枠では南米→時間にルーズ、日本→時間を守るという対比で話がすすんだ。「日本」をひとくくりにしていたことも気になって、次のようなメールを番組に送った。

……………………………………

2015年4月第1週の放送について

南米社会の時間感覚というテーマの放送でした。
この中で、少し気になった部分がありましたので、メールを送らせていただきます。

世界中どの社会であっても、歴史上時間感覚はそんなにきちんとしていませんでした。
南米に特有のものではありません。
そして、日本が特別きちっとした時間感覚を持っているわけでもありません。
日本にも、ウチナータイムとか、山形時間、
韓国に行けばコリアンタイム、東南アジアでも同様の時間感覚があります。
一例で言えば沖縄では
よる8時集合時間の飲み会があったとします。ですが、8時に乾杯することはあまりないようです。
大体8時ごろになったらみんな家を出て、10時頃に全員そろったら乾杯するようです。
また、山形や沖縄ではバス時間も時刻表どおりにはならないことが多いです。
(しかし、これはだいぶ改善されていると思われます。理由は下記のとおり)

では、きちっとした時間感覚を持っている社会とそうでない社会の差はなんでしょうか。
一言で言えば、都市化された社会かどうか、という差です。
都市化した社会は秩序が大事になります。
なぜならば、都市化した社会は名前もわからない他者が大勢いる社会だからです。
そのような社会では無駄な摩擦を少なくするために秩序が大切になってくるのです。
そして、時間を守る意識というのは秩序維持のための基本的な意識になるのです。
例えば、日本の田舎で電車が3分遅れたとします。
しかし、乗客はあまり気にしないでしょう。
次の電車が1時間後であることを考えれば、3分程度でダイヤの秩序が乱されたとは感じないからです。
けれど、都市ではどうでしょう。3分の遅れは電車1本の遅れです。ダイヤの秩序を考えれば、大きな出来事になります。
つまり、都市化された社会とは、言い換えれば時間に「縛られる」社会だということになります。
そして、時間を守ることと同時にインフラ整備もすすめられていきます。この二つは都市化のための両輪です。
インフラが整備されて時間感覚がきちっとしてくる、時間感覚をきちっとするためにインフラを整備する。
どちらが先ではなく、どちらも互いに影響を与えながらすすめられるものです。

日本の都市化は明治時代くらいから始まりました。言い換えれば日本人は明治以降、時間に縛られるようになったのです。
ただ、一度に日本すべてが都市化されたわけではなく、東京や大阪を中心に少しずつ都市化が広がっていきました。
沖縄や山形などはだいぶ遅く都市化の波が到達しつつある状態だ、といえるでしょう。

南米も同様です。
都市化が必要な分野や場所は時間感覚がきちっとしているはずです。
だから、同じ社会で時間にルーズな部分と時間にきちっとしている部分が混在しているのです。

時間感覚の問題は「近代」を考える上で非常に大きな問題です。
そして「近代」を考えることは、現在と将来の私達の生活を見据える上で避けて通ることは出来ません。
さらに、「近代」化することが無条件で肯定されるべきものでもありません。
時間感覚の問題はこのように大きな問題をはらんだものなのです。

日本が特別に時間にうるさいわけではありません。
どの社会も資本主義が発達し、都市化がすすめば、遅かれ早かれ時間に対する感覚は変わってくるはずです。

参考までに、ミヒャエル・エンデ著『モモ』をおすすめします。
都市化することと時間感覚の問題が良くわかると思います。

……………………………………

昔、韓国にいたときに東京出身者・大阪出身者・韓国人・私で時間を守ることの話になった。東京・大阪出身者はかたくなに日本のバスは時間を守る、と主張していた。私は山形や沖縄の例を出して反論したが、それは一部だろうといわれた。
おそらく、都市化された社会の人には見えないことなのだろう。
ラジオのDJ、竹内都子さんも大阪出身の方だ。だから単純に南米は時間にルーズ、日本は時間を守る、だからすごい(行き過ぎた日本スゲーというニュアンスではないが)と乱暴に括ってしまっているのだろう。そろそろ、こういう意識から脱却して欲しい。
⇒無批判に都市化したがる山形人にも言えるが。
  


Posted by はぬる at 11:02Comments(0)雑感・いろいろ

2015年02月18日

水滸伝 100回本 読了

読書中と書いたのが去年の10月くらいだから、4ヶ月もかかった。
忙しくて中断していた時期もあったから、こんなに時間がかかった。

120回本との大きな違いは、やっぱり田虎・王慶戦がないこと。
この20回がないだけで、すごく違いを感じた。
120回に慣れている俺としては、
「え?もう終わり?」感が半端ない。
やっぱり頭領方には全員そろって活躍する場面が遼国戦だけ、と言うのはさびしい。
昔の人が100回本に20回を足した理由がわかる気がする。

ある掲示板で120回本は蛇足で、100回本の完成形を台無しにしている、と強く主張する意見があったのだが
オレはそれに対して結局良く理解できないままだった。

でも、詩がそれぞれの回の冒頭にあってすごく良かったし、水滸後伝とのつながりがすっきりしているのは100回本の強みだと思う。

これから水滸後伝を読もうと思う。
(もう何回目だろう…)

宋江に対して、多くの人が疑問を抱いているが、最近、なんとなく理解できる気がする。
以前コメントを下さった方とのやり取りの中で「徳」に着目するといいと書いたが、今回はそれをさらに意識しながら読んだ。
第110回(100回本では第90回)   燕青秋林渡射鴈  宋江東京城獻俘
で宋江が徳について語る部分があるが、

宋江道:『為軍的人學射弓箭,是本等的事。射的親,是你能處。我想賓鴻避暑寒,離了天山,銜蘆度關,趁江南地暖,求食稻粱,初春方回。此賓鴻仁義之禽,或數十,或三五十隻,遞相謙讓。尊者在前,卑者在後,次序而飛,不越伴。遇晚宿歇,亦有當更之報。且雄失其雌,雌失其雄,至死不配,不失其意。此禽仁、義、禮、智、信,五常倶備。空中遙見死鴈,盡有哀鳴之意。失伴孤鴈,并無侵犯,此為仁也。一失雌雄,死而不配,此為義也。依次而飛,不越前後,此為禮也。預避鷹鵰,銜蘆過關,此為智也。秋南春北,不越而來,此為信也。此禽五常足備之物,豈忍害之。天上一鴻鴈,相呼而過,正如我等弟兄一般。你射了那數隻,比俺弟兄中失了幾箇。人心內如何?兄弟,今後不可害此禮義之禽。』
http://cls.hs.yzu.edu.tw/shz/bin/body.asp?CHNO=110 より)

なるほどな、とすとんと落ちた。

細かいけれど、関勝の最後も違っていた。
これは註釈で解説があったけれど、
う~ん…120回の方がいいなぁ。  


Posted by はぬる at 21:41Comments(0)雑感・いろいろ

2014年10月20日

水滸伝71回以降について

本当にそうだろうか。

水滸伝関連のサイトや本などを見ていると、71回以降に対する評価はよくないことが多い。
金聖嘆が71回以降をぶった切った理由を説明するときは、「金聖嘆が面白くないと思ったから」なので仕方がないと思うが、特に金聖嘆に言及しなくても71回以降は面白くない、という意見をよく見る。
でも、本当にそうか?

その疑問の出処は簡単。オレがつまらないとは思わないからだ。
むしろ、71回以降のみを読むこともある。
そして「面白くない」という意見には「本当に読んでそう思ったのかな」という疑問がつくものも結構ある。
「受け売りだろ?」と感じることが結構あるのだ。
もしくは71回以降を「面白くない」という前情報のまま読み進めるため、それが固定観念というか先入観になっていないか?と感じるのだ。
例えば、108人が終結したとたん豪傑たちがばたばた死んでいくから萎えたという意見があった。
(2CH 水滸伝の二次創作で一番面白いのって?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161660610/ 内 18番目の書き込み)
すぐ次の書き込みで否定されているが、21の書き込みでは100回本ではすぐ死ぬ印象があるのでは、とある。しかし実際に読むとわかるが、征遼戦まで、開封府を騒がしたり、相撲をとったついでに李逵のおバカがあったり、童貫・高球戦があったり、招安のいろいろがあったりする。方臘戦までにいろいろあるから、すぐ死ぬ印象を持つということ自体、本当にちゃんと読んだのか怪しいものだ。
22番目の無根拠な書き込みにいたっては、その忍耐力が必要なものがどうして500年も残ってきたのか説明できない点で、受け売りなんだろうと判断できる。
翻訳者の中では村上知行氏が「ザ・水滸伝」の解説の中でそう書いていた。一般の人には面白くなく、10人中9人は71回以降を投げるだろうと。オレはそれを読んで、何を勝手なことをいっているのか、翻訳者としてそう書いてしまっていいものか、と思ったものだ。

なので、ここではっきりいっておく。

水滸伝は71回以降も十分に面白い。
特にラストは「はじめがあって終わりがある」の言葉通り、何ともいえないものがある。(とりあえずネタばれ禁ということで、こういう風にしか書けない)
71回以降は面白くないとして、これを味わわないのは水滸伝のよさを捨てていると言いたいし、本当に水滸伝を読んだことにはならないのではないかと思う。
  


Posted by はぬる at 22:19Comments(0)雑感・いろいろ

2014年10月12日

只今100回本『水滸伝』読書中

偶然立ち寄った全国チェーンの古本屋に岩波文庫 吉川幸次郎・清水茂両氏による翻訳の100回本『完訳 水滸伝』全10巻と、岩波文庫 小野忍・千田久一両氏による翻訳の『金瓶梅』(1巻、3~10巻)が置いてあった。全部あわせると7000円近く。つい、買ってしまった。『金瓶梅』は2巻が欠落していたので密林で買ってしまった。2巻だけ版が新しいので、他と表紙のデザインが違うのはどうしたものか…

で、今100回本を読んでいる。
完訳と銘打っているだけあって、回ごとの冒頭の詩なども省略せずに載っているのはうれしい。駒田信二氏訳120回本にはなかった。詩も大変読みやすい。
けれど、固有の官職名などを日本のそれにわざわざなおしてあるのはいただけない。奉行所とか所司代とか、そんな言葉が出るたびに水滸伝の世界から引き戻されてしまう。魯達(魯智深の出家前の名前)は提轄であって隊長ではないし、林冲は林師範でなく林教頭なのに。
わかりやすさを大事にした、というのは解説にも書いてあり、それを否定するつもりは毛頭ないが、固有の職名や文化にかかわるものは極力そのままのほうがよかったのではと思う。その分は註釈で何とでもできる。水滸伝で一番一般的でよく出てくる武器は朴刀だが、長刀(なぎなた)と訳されては、一番一般的な武器の理解すらすすまない。(なお朴刀に関しては註釈で、絵入りで解説されていた)註釈が少ないのも、少々物足りない。駒田氏の註釈にないもので、吉川・清水両氏の註釈で補足できるものがあればもっとよかったかな、と思う。
ともあれ、やはり水滸伝は面白い。今のところ120回本と大きな違いはないが、どんどん回がすすむ。
今は青面獣楊志が梁中書のところで急先鋒索超と試合をしたところだ。これから、黄泥岡の事件が始まろうとしている。挿翅虎雷横が赤髪鬼劉唐を捕らえたところで第13回が終わった。托塔天王晁蓋や智多星呉用たちが梁山泊に上って豹子頭林冲とクーデターを起こすエピソード(第19回 林冲水塞大併火 晁蓋梁山小奪泊)や、花和尚魯智深と青面獣楊志の二竜山入りエピソード(第17回 花和尚単打二竜山 青面獣双奪宝珠寺)や、物語としては始めての官軍との戦いのエピソード(第20回 梁山泊義士尊晁蓋 鄆城県月夜走劉唐)などが楽しみである。このあたりのエピソードでは一般的に黄泥岡の事件(第16回 楊志押送金銀担 呉用智取生辰綱)が知名度・人気ともにうえだと思うのだが、オレは17・19・20回のエピソードのほうが好きだったりする…
  


Posted by はぬる at 11:40Comments(0)雑感・いろいろ

2014年10月05日

日本・韓国・北朝鮮のニュース番組を比較してみる。

比較対象はそれぞれ
日本…NHK(19時のニュース)
韓国…YTN 連合ニュースhttp://www.ytn.co.kr/hd/hd_live.html
北朝鮮…エルファネットから「報道」http://sjkb1.news-site.net/
である。

1 はじめに
最近ニュースは見るとしたらNHKの19時のニュースしか見ていなかったが、どうもニュースの質・量ともに低下していると感じていた。
通勤しながら韓国YTNのニュースを見ているが、同じ30分程度の時間で情報量(質はともかく)が雲泥の差と感じた。それが気のせいなのか、母国語と第二言語の差なのか、実際に差があるのか、調べようと考えた。
2者だけではまだ客観性が担保できないと考え、北朝鮮のニュースもあわせて比較することにした。
従って対象に選んだニュース番組も普段見ているもので比較することにした。
ここではニュースの優先順位を選ぶ視点が妥当かどうか、といったことは考慮しない。

2 各番組分析
それぞれの特徴を挙げると、日本の場合韓国・北朝鮮より反復が多く、話のスピードが遅く感じる。パターンとしては、始めに解説を交えた映像を流し、次にスタジオで同じ解説をする。従って同じ言葉を何度も聴くことが多い。またどんな話題でも街頭インタビューが多い頻度で流れる印象である。しかもゆっくり話すため、NHKが重要と考えた話題によっては、一つの話題で10分~15分を使うこともある。もちろん30分という時間制約があるのでその他の話題が切り捨てられる可能性もある。一つの話題の情報量を担保する代わりに、他の話題の情報量を犠牲にしている形だ。スポーツのコーナーがあるのも他と比べて特徴的かもしれない。犯罪報道の場合、裁判が始まっていなくても、実名に容疑者をつけて報道する。
日本の報道は誰かが大事だと判断した2~3本の「レポート」を丁寧すぎる解説とともに何度も読み上げている感じだ。
韓国の場合、基本的に反復はない。アナウンサーは簡単なニュースの紹介をし、取材した人がその詳しい内容を伝える。取材がない場合はアナウンサーが映像に合わせてニュースを読む。画面の下には、緊急度の高いニュースの簡単な内容の字幕が流れる。話すスピードは速い。街頭インタビューは話題による。政治的な話題で街頭インタビューを流すことはあまりない印象がある。従って、30分で日本より多くの話題がニュースとして扱われるが、一つ一つの話題の情報量もある程度担保されている。犯罪報道の際は、刑の確定まで実名ではなく○(任意の姓)某氏(例えば金某氏:キムモシなど)と報道する。
韓国のニュース報道はまさに多数の取材者が、「レポート」を報告するといった感じである。
北朝鮮の場合、金正恩がその日行ったことを報道することが多い(もちろんそうでないニュースもある)。数年前までは静止画像(写真など)にアナウンサーがニュースを読むことが多かった印象だが、最近では映像に合わせてアナウンサーがニュースを読むようになっている。ただ、情報の反復はない。街頭インタビューは以外に多いかもしれない。2014年10月3日のニュースは多くのニュースに街頭インタビューがあった。便宜上街頭インタビューとしたが、実際はその話題の中心人物が話題について解説する。日韓では取材者がその話題について解説をするが、北朝鮮の場合各地の話題は現地の人が解説をする。金正恩に関する話題や政治的・外交的な話題はスタジオのアナウンサーがニュースを読む。
印象的なのは日によって、話題が1つや2つしかないこともある。金正恩に大きな動きがあったときだ。そのような日はほかの話題はすべて吹っ飛ぶ。2014年10月3日のニュースは話題が豊富なほうだった。18分の時間でニュースは11分、残りは天気予報だったが。ソウルの言葉に慣れている人にとっては北朝鮮の言葉が方言であるため、特徴的に聞こえるが、速度としては少々速い程度だ。

3 比較
情報量の多さとしては韓国のYTNが多いと感じる。それは反復がないことが大きい。日本の場合、同じ内容のことを同じ内容で繰り返すことが多く時間の無駄ではないかと思われることも多い。北朝鮮の報道の場合、話題数自体が金正恩の動向に深く関わってくるが、同様に日本の場合も話題数がNHKの胸算用に左右されていると言える。
2014年10月2日の北朝鮮報道では女子サッカーにおいて北朝鮮チームが日本チームに勝ったニュースが報道されているが、非常に多くのインタビューがなされている。
https://www.youtube.com/watch?v=SN_aFBypE5Y&list=UUU9E2rz-u8dig90UVO-07DQ
これは日本のNHK19時ニュースもほとんど似たような場面が見られる。ひどいときには始まってもいない試合について10分以上も報道していたこともあるほどだ。もちろん韓国もそのような部分があるのは否定しないが、ニュース番組の中で詳しく扱うのではなく、独立したスポーツ番組で詳しく扱うため、「ニュース番組」として他の話題を圧迫することは少ない。

4 まとめ
民主社会において情報は非常に大切なものである。情報をどのように提供するかは、慎重に配慮されるべきである。この前提の上で、情報量という視点で考えたとき、NHKの情報提供の仕方には、民主社会を担保する情報提供者として物足りないどころか、逆方向に向かっているように感じる。北朝鮮の報道とのいくつかの共通点はそう感じさせるのに十分な役割を果たしている。韓国の場合、より多くの「レポート」を報告しようとするのは、市民が民主化を実現した、ということが大きかったのではと思う。ここでは「ニュースを選ぶ視点」については考慮していない。しかし、この視点を考慮したとしても日本の報道の民主主義に対する後進性は払拭できないだろうと思う。それは、より多くの情報を提供しようという考えが欠けているためである。



  


Posted by はぬる at 00:21Comments(0)雑感・いろいろ

2014年09月29日

おそらく、たぶん…

今なら違う読み方ができるんじゃないかと…










































でも、本のタイトルも著者名も忘れた…OTL  


Posted by はぬる at 21:16Comments(0)雑感・いろいろ

2014年09月08日

秋夕

오늘은 추석이다     
         今日は秋夕だ
달이 아주 맑게 비춘다  
         月がとても明るく輝く                        
그날처럼            
         あの日のように
아주 고요하게        
         とても静かに
그 사람도 보고 있을까?  
         あの人も 見ているだろうか
그날과 같은 이 달 빛을... 
         あの日と同じ月の明かりを…





가을 밤 이선희        

가을밤 외로운 밤 벌레우는 밤
초가집 뒷산길 어두워질 때
엄마품이 그리워 눈물 나오면
마루 끝에 나와 앉아 별만 셉니다.

가을밤 고요한 밤 잠 안오는 밤
기러기 울음소리 높고 낮을 때
엄마품이 그리워 눈물 나오면
마루 끝에 나와 앉아 별만 셉니다.

秋の夜   イソンヒ

秋の夜 寂しい夜 虫の鳴く夜
わらぶき屋根の家 裏山の道 暗くなるとき
母さんの胸が恋しくて 涙が出ると
縁側に出て座り 星を数えます
秋の夜 静かな夜 眠れない夜
雁のなく声が 高くなり低くなるとき
母さんの胸が恋しくて 涙が出ると
縁側に出て座り 星を数えます

http://www.youtube.com/watch?v=70Llb3_kbus  


Posted by はぬる at 23:39Comments(0)雑感・いろいろ山形・上山

2014年09月04日

池上彰氏の問題について

あんなコラムだったら載せないほうが良かったのでは?
と思う。

オレは常々池上氏について、中道主義というか現状追認的なところがあると思っていた。俗っぽく言えば意見が割れている(ように見える)イシューは、両論併記が基本と言ったように。
両論を併記する事が正当かどうか、批判的な視点をあまり感じられない人だと。
今回がそうだと言い切れる材料はなかったが、朝日の検証記事の結果、日本軍性奴隷制度の問題が矮小化や歪曲されやすくなっている、または実際されている現状において、池上氏が何か言える余地があるのだろうか、と思ってしまった。

で、今日池上氏のコラムが朝日に乗っていた。
池上氏の「何も言っていない」けど「なんか言っている」感がありありと出ていた。
朝日の中途半端な態度はどうかと思うが、日本軍性奴隷制度の問題の本質は朝日が謝ったかどうかではないはずだ。
けれど、朝日の検証記事以降、本質が置いてけぼりになっている。
そこには朝日自身の中途半端さにも責任があるが、毎日や池上氏のような態度にも問題があるのではないか。
(産経・読売などは論外)
現状追認や中立と言う態度が現状をどのように追い込んでいくかが良くわかるサンプルだと思った。

  


Posted by はぬる at 22:27Comments(0)雑感・いろいろ

2014年08月25日

よくもまぁ、こんなバカな記事がかけるもんだ。ある意味すごいね。恥ずかしくないのかな。

と言うわけで産経の記事を晒し上げ。

………………………

安倍政権の「暴走」に感謝?! 共産が空前の党勢拡大

産経新聞 8月24日(日)13時31分配信

 日本共産党が党勢拡大に向けて全党に号令をかけた党創立92周年をめぐる「躍進月間」(5月15日~7月31日)で、「空前の前進」(党関係者)を果たした。集団的自衛権の行使容認はじめ安倍政権の政策をことごとく「反動的暴走」と決めつけ、それにブレーキをかけようと喧伝(けんでん)するキャンペーンが奏効したとみられる。しかし裏を返せば、党勢拡大を続けるには同党がいう「暴走」を安倍政権に続けてもらわなければ困るわけだ。

■「還暦」の志位委員長も“カンゲキ”?
 「わが党の指導部は安倍晋三首相に足を向けて眠れないのではないか…」
 ある共産党関係者はこの夏の党勢拡大運動の「成果」に関し、こんな本音をもらした。つまり、躍進は「安倍政権のお陰」ということらしい。
 党員5100人入党、党機関紙「しんぶん赤旗」読者1万2千部増-。8月3日に党本部で行われた幹部会で報告された躍進月間の「成果」は、「過去のこうした党勢拡大運動ではありえなかった前進」(党関係者)だという。
 これに志位和夫委員長ら指導部は「三つの確信」を得たと小躍りした。いわく(1)党を大きくする客観的条件が存在する(2)主体的にも強大な党づくりの事業をすすめる条件がある(3)党の事業を世代的に継承する大きな展望をつかんだーと。
 直前の7月29日に還暦を迎えた志位氏にすれば、この躍進は何ものにも代え難い「還暦祝い」となったことだろう。共産党関係者によると、志位氏は還暦の誕生日当日に党所属国会議員の議員会館の事務所を「還暦になりました」と、わざわざあいさつ回りし、秘書にも声をかけたという。躍進月間の数字を事前にある程度把握していたのか、とにかく上機嫌だったらしい。
 なにせ平成12年に委員長に就任して以来、苦節14年だ。昨年の東京都議会議員選挙と参院選で「委員長として初の躍進」を果たした後も、風の吹き加減で党勢が一変する他の野党との「違い」を前面に打ち出し続け、「ぶれない野党」のイメージが無党派層にも定着してきたことが自信になっているようだ。
 24日に発表されたフジテレビの「新報道2001」の世論調査(首都圏)での政党支持率をみると、共産党は5・2%で、野党では民主党(5・8%)に次いで2位に入った。与党の公明党(3・4%)よりも上位にあり、他の野党のみんなの党(0・8%)、社民党(0・8%)、生活の党(0・4%)、次世代の党(0・4%)、日本維新の会(0・0%)、結いの党(0・0%)を大きく引き離した。共産党が「奇妙な自信」をもってもおかしくないのだ。

 ■独善的スローガンの「自共対決」
 志位氏はこのところ「『亡国の政治』と決別し、未来に責任を負う新しい政治を」と訴える一方、集団的自衛権行使容認や特定秘密保護法、原発、消費税、米軍基地問題などをあげつらい、「安倍政権の暴走」に歯止めをかける国民運動のうねりを高めようと声高に叫んでいる。
 1月に静岡県熱海市の党員研修施設「伊豆学習会館」で開いた第26回党大会でも、志位氏は安倍政権の集団的自衛権容認の動きをとりあげ、「海外で戦争する国づくりの野望だ」と繰り返し批判した。
 共産党指導部の狙いはどこにあるのか-。それは「平和」を叫びながら、安倍政権の現実路線を奇貨として“戦争前夜”のムードを無用に煽ることで、自民党を支持する保守層の一部や無党派層をも「統一戦線」に取り込んでいく戦略が見え隠れする。
 志位氏は「共産党が自民党への批判を託せる唯一の政党だ。『自共対決』時代が本格的に始まった」と強調しつつ、「有害で危険極まりない。戦後の保守政治が掲げてきた諸原則すら否定する右翼的反動的な立場だ」などと、おどろおどろしい表現で安倍政権攻撃を続けている。
 むろん、共産党がどれだけ「自共対決」を唱えようが内実は独善的なスローガンにしか受け取れない。「天皇制さえ公式には認めず、日米安保条約廃棄を叫ぶ共産党は自民党の好敵手になり得ない」(共産党ウオッチャー)からである。

 ■「赤旗まつり」の目玉は八代亜紀
 それでも志位氏は8月3日の幹部会で「開始された前進を絶対に中断することなく、さらに大きな発展を」と、こぶしを振り上げた。躍進月間に、梅雨にも暑さにもめげず奮闘した党員の努力は認めなければならない。だが党員にしても赤旗読者にしても、瞬間風速的に増えた側面もあることは完全には否定できないからだろう。
 共産党関係者によれば、党指導部は9月にも予定している党中央委員会総会を経て、11月1~3日に都内で4年ぶりに開く「第41回赤旗まつり」に向けて党勢をさらに前進させ、来春の統一地方選で大躍進を果たすという青写真を描いているという。
 赤旗まつりの目玉は、『雨の慕情』や『舟歌』のヒット曲で知られる女性演歌の大御所、八代亜紀さんの歌謡ショーだ。「赤旗まつりに招く芸能人では過去最高の大物」(共産党関係者)と鼻息が荒いが、党がターゲットにする無党派の若年層が八代亜紀さんに食いつくかどうか疑問ではある。
 だが「数百万の破格のギャラを用意した」(党関係者)というから、力の入れようは相当なものだ。当然「費用対効果」を計算してのことだろう。
 かくして共産党は硬軟織り交ぜた戦略で、党勢拡大を持続していくことに血道を上げている。しかしその大前提となるのはやはり、安倍政権に、共産党が言う「暴走に次ぐ暴走」を続けてもうことではないか。
 政党に限らず組織というものは往々にして、格好の「敵」をつくり、それを糧にして強化、拡大していくものだ。共産党が目をつけたのが、安倍政権なのである。ゆえに共産党にとっては渡りに船といえる安倍政権の「暴走」に対し、同党が真剣にブレーキをかけたいと考えているとは思えない。
 現に党内からは「安倍政権が安全運転に徹すると攻め手をなくす」(関係者)という声が聞こえてくる。党勢拡大の帰趨(きすう)は安倍政権の「暴走」“頼み”ということなのだろう。
 しかしそれ以前に、衣の下に鎧(よろい)をまとった革命政党が党勢拡大にどれだけ躍起になろうが、おのずと限界があることは言うまでもない。(政治部編集委員)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140824-00000525-san-pol

………………………

もう、この記事自体が突っ込みどころ満載で、さすが8流ギャグ新聞紙と言ったところなのだが、まぁ一つだけ。

産経の理屈…「共産の躍進は安倍政権のおかげ」を是とするならば、それは同時に「産経の論調と似た右翼層の台頭は中韓のおかげ」を是としなければならない。産経がそれでいいのなら何も言うことはない。
しかしそうなると、
産経はなんだかんだと中国・韓国との外交に関して問題を記事にするが、それは煽りを目的にしているのであって、問題を解決しようとしているのではないことが良くわかる。
なぜならば、
「ゆえに産経新聞にとっては渡りに船といえる中韓の「反日」に対し、同紙が真剣にブレーキをかけたいと考えているとは思えない。」
からである。

ついでにYahooコメントもひどい。
デマ・無知・印象による決め付け等のオンパレードである。
さすがに自民党の工作員説は陰謀論ではと思っていたが、もしや本当なのか?と疑いたくなってしまった。

まぁ、この記事にしてこのコメントありだろうか。  


Posted by はぬる at 21:27Comments(0)雑感・いろいろ

2014年08月10日

「日本」大好きな自称「日本人」の方々が「日本語」の使い方に関して不自由になるとき

最近の朝日の日本軍性奴隷制度(朝日の言葉では「従軍」慰安婦制度)の報道で、まるで鬼の首を取ったように喜んでいる人たちがネットで見受けられる。
でも、なんで喜べるのかが良くわからない。
朝日が否定した部分は全体ではなく、ほんの一部であって、その否定した部分がどうであろうと全体像に与える影響はほとんどない。
それが読めないくらいに日本語に不自由しているのだろうか。
これで喜んでいる人たちは、20周くらい遅れている周回遅れの思考を持っていると言えよう。


また、朝日のみが日本軍性奴隷制度を研究していたわけでもない。
いろいろな研究の積み重ねによって評価は定まっている。
秦某氏はネット上の喜んでいる人たち(以降便宜上『否定派』とする)と近い意見を持つ歴史の研究者だが、『否定派』の歴史学者では彼が唯一と言っていいくらいだ。残りの『否定派』のうち、学者の肩書きを持っている人々は大概畑が違う人々で、歴史学者ではない。
個人的に秦氏のインタビューなんか載せなくていいのに、と思った。
吉見氏と小熊氏で充分だ。
バランスをとろうとしたのだろうか。
としても、秦氏は議論を混乱させるだけで現在の研究成果を示すことはできない。
笑えたのが読売だったか産経で、朝日の報道を受けて作った記事に日本軍性奴隷制度に関して自称知識人からインタビューを取ったようだがすべて自社の主張に都合がいい人で固めていた。余りにもばかばかしくて新聞名も忘れてしまうほどあきれた。

『否定派』だけじゃない。研究の成果をしっかり報道できないマスコミの問題だ。
日本の日本軍性奴隷問題の議論がいかに周回遅れか分かる。
以前、何かの記事でこんな文言を見つけた。(産経だったと思うが忘れた)

慰安婦問題の本質的な焦点は『強制連行の有無』


… 違 う か ら
  

Posted by はぬる at 15:15Comments(0)雑感・いろいろ

2014年01月29日

標的の村

威勢のいいことを言う人たちがいるけれど、
まずは米軍にとられている「日本固有の領土」を取り返したら?

んでも、そういう人たちに限って、アメリカ様には「日本固有の領土」をあげたがるんだよなぁ…  


Posted by はぬる at 20:00Comments(0)雑感・いろいろ

2013年11月26日

三国志演義 感想

三国志演義読了した。
180年ころから始まった三国志演義の世界は、280年ころまでを、120回で描いて終わった。漢の滅亡が220年で、演義では第80回。劉備が死ぬのが223年で、演義では第85回。諸葛亮が死ぬのが234年で、演義では第104回。
井波律子氏は劉備や曹操を第一世代、諸葛亮を第二世代としている。さしずめ姜維や司馬昭、鄧艾、鐘会は第三世代か。第二世代に世代交代するまで、第一世代は80回近くまで登場するため、どうしても彼らの背中を80回以降も追い続けてしまう。それでも関興や張苞らが活躍していたころはまだ、第一世代の面影を探すことができた。趙雲も生きていたし馬岱もがんばっていたからだ。何より孫権が残っていた。けれど次第にその面影も薄れていく。特に姜維が20代で蜀に降伏して以降、第一世代の面影は回をおうごとに薄れて言った感じがした。諸葛亮が死んで、第三世代になると、関羽や張飛の面影はほとんど見えないのは、なんともいえず寂しいものがあった。
また、哀れなのが曹芳以降の魏の皇帝だった。彼らには曹操の面影などほとんどなく、司馬一族の良いように操られ、時には殺されて、結局265年には、220年に曹丕が漢の献帝にしたように晋に禅譲してしまった。
時のめぐりだと言ってしまえばそれまでだけれど、80回くらいから、読んでいて寂寥感が次第に募った。
日本では、『三国志』に関する物語は、その多くが五丈原で諸葛亮が死ぬあたりでピリオドを打つ。
オレはこれには少し複雑な思いを抱いた。というのは、水滸伝との兼ね合いがあるからだ。
水滸伝の場合、金聖嘆が腰斬して以降、108人の勢ぞろい後を省略したりダイジェストにまとめて終わり、という場合が数多く見られる。そして、そうする理由として、退屈な戦争シーンが続くなどといったことを挙げる。
退屈かどうかは各人の判断だと思うが、70回本を翻訳した村上知行氏などは、まことに面白くないと言い切っている。しかしオレにとっては、三国志演義も第一世代退場後は同様だ。物語前半で個人に描写の多くを充てることができ、その頭領たちが戦争で活躍する姿や次々と戦没していく姿が容易に想像できる水滸伝(したがって水滸伝の70回以降が退屈だと感じたことはあまりないし、むしろ、勢ぞろい以降も好きだったりする。そして慣れ親しんできた頭領たちが次第にばらばらになっていく寂寥感は、三国志演義では味わえない部分でもある)と違い、三国志演義の場合は戦争シーンは想像しにくいため(例えば誰かが活躍したとしても「これ、誰だっけ?」となってしまう。120回の王濬・杜預-呉を滅亡させた晋の武将-はその際たるもの)、正直なところ三国志演義の戦争シーンのほうが退屈だったりする。第一世代は個人のエピソードがまだあるほうなので、戦争シーンになっても、想像できるのだが、第2~3世代はなかなか大変である。だから、オレは水滸伝の70回以降がツマンナイという奴らは、三国志演義の第一世代(せめて趙雲)の退場後もツマンナイというべきだと、個人的に考えている。
そういうわけで日本での『三国志』に関する多くの物語が、五丈原以降をあまり取り上げないのは、理由のあることと理解している。(別に賛成しているわけではないが)
とはいえ、三国志演義の100年の時間の流れは物語として必要だ、とも思う。
読了後の寂しさは、物語世界の中で確かに時代が変わったことを感じた証左なのだ。
三国志演義が時代の移り変わりを描いた物語だとすれば、五丈原で終わってしまうのは三国志演義の物語の本質から外れてしまう。そのことは120回の最後の詩が雄弁に物語っている。これは水滸伝では味わえない部分だ。

日本での『三国志』人気がどのようなものか、あえて分析する気はないが、五丈原以降をあまり取り上げないのは理由があることと理解するものの、物語を味わうという意味ではもったいないという気がする。
それだけ三国志演義読了後の寂しさは胸に来るものがあった。  


Posted by はぬる at 00:36Comments(0)雑感・いろいろ

2013年10月29日

日本シリーズ

楽天に勝ってほしいなぁ…
東北の人間だから、創設時から注目してたってのもあるけれど、オレは日本社会の巨人至上主義が本当にいやだ。楽天はそれとは対極にあるチームだと思うからだ。
ただ、そういう意味では、野村監督のときに日本一を見たかった…

けど今日の中継、実況と江川氏の解説は訳がわからなすぎる…
例えば、なぜレイを変えなかったか。
結果的に判断は星野監督のほうが正しかったわけだ。
で、あればそこの点を考察・解説して欲しいのに、言うことは
「巨人の打線は怖い」
だけである。
そんなのは、解説されなくても充分わかっている。
そんなことを言うために実況や解説があるのだろうか。
だったら、なんと言う低レベル。
普段、ラジオで野球を聞いているオレにとっては、この中継の実況・解説は本当に訳がわからない。
ここにも巨人至上主義が垣間見える。
ちなみにオレはホームラン攻勢は好きでない。
打線のつながりで点を取る野球のほうが好きだ。

9回裏、斉藤隆投手、ピシャリと試合を〆て欲しいなぁ~♪


追記
楽天が5-1で勝利!!
美馬投手の力投
レイ投手、斉藤投手も美馬投手の急な降板に関わらず、すばらしい継投
つながりのある打線
大事なところで打てる選手たち
本当にすごいチームだ。

ペナントレースでもそのような試合を何度も聞いたけど、このシリーズで普段どおりの試合ができるのはやっぱり強いチームなんだと思う。  


Posted by はぬる at 21:53Comments(0)雑感・いろいろ

2013年10月27日

「民族性」と「社会性」

オレは「民族」と「社会」という二つの言葉を明確に区別している。
例えば「アメリカ民族」と「アメリカ社会」は対象がまったく違うどころか、「アメリカ民族」などというものは、その対象になるもの自体存在しない。存在しないものを言葉にしているではないか、と思われる向きもあるだろうが、「アメリカ民族」という言葉は、「焼肉が走ったわりに飛行機を猫が泳いだ」というような文章(文法的には間違っていない)と同じで何の意味もないものだ。
では「日本民族」という言葉はどうであろうか。
一見、意味のありそうな、対象が存在するかのような言葉である。
しかし、歴史的・文化的・地理的に考えたとき非常に深い問題を抱えている。

※ところでこのエントリで、これから先、「日本民族」という言葉を使うが、日本社会において「日本人」「日本民族」「大和民族」は大体似たようなニュアンスで使用されることが多いので、特に断らない限り、「日本民族」は「日本人」「日本民族」「大和民族」を代表している言葉であると捉えていただきたい。

「日本民族」の定義を考えたとき、確実に外れるのは例えばアイヌの人々、沖縄の人々、在日コリアンであろうか。そうではないと感じる人がもしいるならば、既にこの時点で人による状態、つまり「あいまい」な状態になっている。

仮にそのような人はいないとして考えを進める。
東北地方の人々は厳密に「日本民族」といえるだろうか。
明治以降までも歴史経験が中央の政府とは明確に違う。東北には9~10世紀ころまで蝦夷(化外の人)がいて、明確に奈良・京都の人々からは別の存在と捉えられていたのに、また、明治政府に反して違う国家を作ろうとまでした人々なのに、本当に同じ「日本民族」といえるのだろうか。また、逆に中央の政府は東北の人々をどこまで同じ民族の人と捉えてきた(いる)だろうか。

これは京都・奈良の人にとっても同様である。
日本列島に住む人々のうち、どれだけの人が「他民族」の影響を受けずに今日まで純粋な「日本民族」として存在しているだろうか。
断言するがこのような者は一人としていない。天皇とて例外ではない。天皇家の血筋、天皇家の伝統的な文化は長い歴史の中で絶えず「他民族」の影響を受けずにはいられなかった。これは「他民族」も同様である。
結局、「民族」は互いに融合しあい、影響しあうものなのである。そう考えたとき、「日本民族」と「他民族」を明確に分けるものは何であろうか。

さらに日本の文化も一様ではない。東北の中にすらさまざまな文化がある。その差に大小はあるが、違いが確実にあるのだ。「日本民族」を定義するなら、どこからどこまでの違いが「日本民族の文化」として許容されるべきか、考慮されなければならない。
方言とて同じである。
「しゃますすんなねがら、ちょすなず。てしょずらすいな。」は日本全域では通用しないが、ごく一部の日本人が使う言葉である。
どこからどこまでを「日本民族の言語」とするか、考慮されなければ、「日本民族」は定義できない。
しかし、そのようなことは不可能である。
文化の違いというのはきちっとした垣根があるのではなく、グラデーションのようになだらかな違いであらわれるからである。
(これらのことは過去のエントリーで幾度となく指摘しているので参照されたい)

このようなことから、オレは「民族」とは実体のない、幻想だと考えている。人によってさまざまであり、定義できない「あいまい」なものであり、本来意味を持たないものなのだ。

ちなみに「本来」、とつけたのには理由がある。本来意味を持たないものに、意味を持たせることで利益を得るものがいる、ということだ。
それは、国民国家として国民がひとつのものである、となったときに利益を得る者…時の権力者や、権力者と結びついて利益を得る者がそうである。たとえば資本主義の社会においては資本家、それも大資本家がその一例である。

さて反面、「社会」という言葉は、はっきりとした定義づけが可能である。
例えば「日本社会」は『日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体、および、日本国憲法の及ばない地域に住んでいても、「日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体」の影響を強く、長く受けたもの同士が集まって作り出す共同体』といえるだろうか。(もっといい定義づけがあると思うが、とりあえず)
原理的に「社会」にはマイノリティが包括されているため、「民族」という言葉で表したときに排除される傾向が強いマイノリティも「社会」では排除されない。
また「社会性」は変革が可能である。「民族性」は「民族」が実体のないものであるがゆえに、原理的に変革は不可能であるが、「社会性」は「社会」が示す対象がはっきりしているために、その対象が努力をすれば、変革は充分に可能なのである。

このように、「社会」と「民族」は明確に違うものである。
したがって「日本社会」と「日本民族」は区別されるべき言葉であるし、そもそも「日本民族」も「アメリカ民族」と同様、意味のない言葉なのである。
そういうわけで、オレは過去エントリーにおいて「民族」という言葉で論を進めてはいない。(はず。)
そして、日本社会において「民族」、とりわけ「日本民族」という言葉を使うことに無批判であることは、「民族」や「日本民族」という言葉で得をするほんの一部の人間を利することだと考えている。
もし自分はそんな言葉で得をすることがない、というのであれば「民族」という言葉には警戒すべきだろう。
  


Posted by はぬる at 23:11Comments(0)雑感・いろいろ

2013年09月12日

水をさすなよぅ

とうきょうおりんぴっくに反対している人たちに対して
「いいじゃん、せっかく7年後にくるってことでみんな喜んでんだから。水をさすなよぅ」
という意見がある。

これって、非常に日本社会の非民主性というか、独善性というか、全体主義志向というか…そういったものを表しているように見える。

冒頭の意見は、言い換えれば少数意見はしゃべるな、オレは聞かない、って宣言しているようなもんだ。
つまり日本社会は話し合いができる社会じゃない、ということを冒頭の意見を述べる人は言っているわけだ。
まぁ、本当に「みんな」喜んでいるのか、といえばそれは嘘になるわけなんだけれど。
少なくとも日本社会の中で確実に一人は喜んでいない。その時点で「みんな」という言葉は嘘なんだ。それは無視していいとかそういう問題ではなく、正確性の問題なのだ。マスコミが言う「みんな」とか「日本中が」とか言うのは正確性を全く欠いている。そんな報道にだまされてはいけない。流されてはいけない。

「水を差すな」という言葉は裏返せば、指摘された問題が大きいことを認めている、ということだ。たいしたことないものであれば、「何言ってんの?」と流して終わることだからだ。指摘されている問題が大きく解決しなければならないことはわかっている。でもそんなことは忘れて、喜びに浸りたい…そういう心が「水を差すな」という言葉に表れているのだ。

でも、問題に目を背けたまま流されることが本当にいいのか、オレはどんどん水を差してやりたくなる
  


Posted by はぬる at 23:28Comments(0)雑感・いろいろ

2013年09月07日

さささんへの返信

オレはここのほかに夏天故事というブログを持っている。内容はこことほぼ同じで、互いにバックアップさせている。そこの北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 7(最終回)のコメント欄にさささんという方から、示唆にとんだコメントをいただいた。

引用開始
…………………………
Unknown (ささ)2013-09-07 00:16:09はじめまして
水滸伝で検索したらこのブログが出てきたので興味深く読ませていただきました
個人的には水滸伝に忠実な作品に飽きてたこともあり、この作品が好きですが原作と違いすぎてダメというなら仕方がないと思います。そこは個人個人の感性一つ
ただあえて反論するなら

・アジアを下に見ている
・水滸伝が有名ではない

の2点でしょうか

北方氏の作品の傾向として「男の生き様(死に様)を書く・タブーへの挑戦」
が挙げられるかと思います
ハードボイルド作品を端緒にから最近はタブー視されがちな南北朝期・中国物の歴史小説等、作品の幅を広げており、
南北朝期の作品では後醍醐天皇を愚かだが大きな男として描き、三国志や楊家将等では水滸伝ほどではなくとも原作と大いに違う人物設定で描かれています
水滸伝の大幅な改編はアジア蔑視などではなく北方氏の姿勢に拠るものかと。

また、中国の古典小説は古くから輸入されたものも多く、日本文学に大きな影響を与えました。
三大奇書を始め、封神演技・岳飛伝・楊家将・金瓶梅等は現在でも著名な作家が多く書き、日本人に愛され続けています
中国の古典小説は欧米文学なんかよりよほど日本に根付き、日本人にとって身近なものと思いますが。。

水滸伝に関して言えば江戸期は滝沢馬琴・山東京伝・上田秋成等の作品に多大な影響を与え、
近代・現在では吉川英治氏の小説や駒田信二氏・吉川幸次郎氏の翻訳等を始め柴田錬三郎氏・津本陽氏・杉本苑子氏等錚々たる文豪があるいは原作に忠実に、あるいは大幅に改編され出版されました
勿論、小説だけでなくゲームや漫画・アニメ・梁山泊を冠した団体等、広く人口に膾炙されています
あまりに多くの作家が書き飽和状態(原作に忠実な作品が多すぎる)がゆえに敢えて全く違った世界を描いたという見方も出来ると思います
北方氏レベルならわざわざ剽窃せずとも十分売れてますし、北方水滸伝がオリジナルと思う粗忽者はそうそういないでしょう。
日本式のカレーやキムチの方が本場のものより好きだという人が多くとも日本がオリジナルだと思う人はほぼ居ないし、万が一、そう思ってたとしてもすぐに気づくレベルの話かと

それに、世界観が全く違う水滸伝はこれだけじゃありません。
例えば杉本氏の悲華水滸伝では登場人物がお互いに「君」付けで呼び合うような代物ですし、水滸伝を題名にいれ内容は現代や未来といったものも数多く見受けられます
また、作品は違いますが陳舜臣氏の秘本三国志では劉備と曹操が結託してたり。
まぁ、それが良い悪いは先にも書いたとおり個人個人ですが。。ただ、それでアジア蔑視はちょっと行き過ぎかなと
………………

引用終わり

そこで返信するためには少々長くなったのでエントリーとしてあげたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さささん
はじめまして
コメントありがとうございます。

私は改編自体をダメだとは思っていません。
ただ、改編をしたのならそれとわかるような示し方があってしかるべきだろう、と考えています。(個人的には、それが自身の小説にネタを提供した原典への礼儀だと思います。)
さささんが提示してくださったように、さまざまな人が水滸伝を自分の小説『水滸伝』を描いています。そして、それらの人は、自分の小説であることがわかるようにタイトルを『○○水滸伝』としたり、全く別のタイトルにしたりするわけです。また、原典からの翻訳であれば、註をつけたり解説をつけたりと、検証が可能なようになっています。原典からの「忠実な翻訳」というのはあり得ない(と、私は思っています)ので、このことは非常に大事です。

そういった点で北方氏の『水滸伝』は大きな問題をはらんでいるというのが私の問題意識です。それは、本文には言及しませんでしたが安能務氏の『封神演義』にも同様のことが言えます。文庫本には「翻訳」と書いてありましたが、コーエーの『封神演義』と読み比べると全く違い、特に申公豹に関しては安能氏の創作の度合いが強いです。また、安能氏の『封神演義』は道教の世界観をことごとく破壊しています。このような改編をするのであれば、「翻訳」ではなく「翻案」、タイトルも『封神演義』ではなく『○○(私本だとか新だとか…)封神演義』とすべきでした。しかし日本において封神演義は安能氏の『封神演義』が封神演義として認識されてしまっています。私は水滸伝にこのようなことがおきるのではないかと危惧しています。
なお、封神演義に関しては以下のサイトをご参照ください。

中国の民衆文化と信仰
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/chpop.html

私はこのサイトの問題意識に共感します。

そこを踏まえて、さささんのコメントにお答えします。

>水滸伝の大幅な改編はアジア蔑視などではなく北方氏の姿勢に拠るものかと。

改編自体にアジア蔑視がある、とは私も考えていませんよ。
ただ、北方氏の『水滸伝』を無批判に水滸伝として受容することに対しては、日本文化>中国文化の構図があるのでは、と考えています。
例えば、私は本文に引用した編集者の文章にそのことを感じました。
その一例としては
>この北方「水滸伝」全巻が、しかるべき後、かつての金聖嘆版七十回本が「水滸伝」定本とされたように北方「水滸伝」が定本になる。
という文言があって、傲慢ではないか、と批判したわけです。(そこがアジアの諸文化を下に見る傾向があるのではないかということの根拠の一つです)
で、その根底に「豊穣な近現代小説」である北方『水滸伝』>中国古典という文化の対立があるんじゃないか、ということです。
そして、北方『水滸伝』を水滸伝として評価する方々が北方『水滸伝』面白い(+原典面白くないとわざわざ言う人もいる)という時に、私は「いや、あなた、中国の文化を理解しようとした?現代日本人に合わせて書いたプロの小説家の小説が日本人にとって面白いのは当たり前でしょう?理解しようともしないで楽なほうばっかりで終わらせるのはどうなのさ?せっかく世界を広げるいいものがあるのに」と思うわけです。
この点は、水滸伝のみに感じるわけではなく、昨今のK-pop・韓流ブーム、沖縄ブーム、日本人の東北観にも感じています。

>また、中国の古典小説は古くから輸入されたものも多く、日本文学に大きな影響を与えました。

さささんの仰るとおり、歴史的に見れば水滸伝は日本人に多大な影響を与えてきました。しかし、吉川英治の『三国志』の登場以降、『三国志』が水滸伝を凌駕してしまい、水滸伝のタイトルは知っていても内容を知らない、という人は非常に多いと思いますがいかがでしょうか。ドラマや小説では確かに書かれていたかもしれません。でも、例えば日本のドラマ『西遊記』を見て西遊記を知っている…とはなりませんよね?(極端な例ですみません…--;)

>北方水滸伝がオリジナルと思う粗忽者はそうそういないでしょう。

そうであれば私の杞憂に過ぎないわけで、まぁいいのですが・・・
①本文でも言及したNHKの水滸伝番組(水滸伝とは言いがたい『水滸伝』を水滸伝として扱う?…全部は見ていないので?です)
②月刊水滸伝(http://suikoden108.com/)というサイトでも北方『水滸伝』の無批判な受容…合わせて吉川幸次郎氏、駒田信二氏の名前すらない。つまり原典(の翻訳)を紹介していない。
③以下の例のようなものをネットで散見
事例1
Yhoo!知恵袋
三国志と水滸伝ではどちらが面白いですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1169917801
の質問に
…………
水滸伝です
三国志は
正統が正義だという考えに基づいてるんでピンとこない
公明も持ち上げ過ぎです
儒教に則ったつくりごとの話しです
本場の水滸伝にも同じようなものがあります
楽しむんだったら「北方水滸伝」です
……………
との回答。三国志と比べるのなら原典かもしくは原典に近い小説をすすめるべきではないか、全く別物の『水滸伝』では比較にならないのではないか、と思うのですが…
同様に「水滸伝を読みたいんだけど何を読んだらいい」との質問に「北方謙三の水滸伝」と答えるものを何度も見ている。

事例2
Yhoo!知恵袋
三国志の本を読んでみたいと思います。北方さんの水滸伝を読んで、中国史っておもしろいなぁと感じてるとこです。
長編でもいいので、読んでいて、心躍るような三国志が読みたいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1481880284

という質問。
この方は北方『水滸伝』でとどまっているわけで、水滸伝好きとしては「いやいや、あれを水滸伝って言わないで~原典読んでから“水滸伝読んだ”って言おうよ」といいたくなる気持ちは理解していただけるかと思います。ブログ等でもこのような言説(“水滸伝”面白いよ→北方氏のだった:いや、面白いんでしょうけど、せめて北方氏のものなのか、原典の翻訳なのかわかるように…)が多いです。

以上のような点でどうも、杞憂に終わらせてはいけないな、と思った次第です。

>あまりに多くの作家が書き飽和状態(原作に忠実な作品が多すぎる)がゆえに敢えて全く違った世界を描いたという見方も出来ると思います

でもそれは、およそ原作を持つ小説すべてにいえることですが、やっていいことなんでしょうか…?
おそらくこの点が一番大きく見解が分かれる部分であり、北方『水滸伝』を水滸伝として受容するかどうかの分水嶺だと思いますが、私はしてはいけないと考えます。水滸伝の世界をどう料理するかは小説家の勝手ですが、壊してはいけないラインはあると思うからです。それがないなら、極端な話、全く別のお話に、今売れているタイトルを勝手につけることが認められてしまうでしょう。(実際中国に住んでいた際、ジブリの「猫の恩返し」が「千と千尋の神隠し2」というタイトルで売られていた)
タブーへの挑戦とはかっこよい言い方ですがそうであれば、ご自身が書きたかった「キューバ革命」をキューバ革命そのものでやればよい話ではないか…と思わざるを得ません。

>例えば杉本氏の悲華水滸伝では登場人物がお互いに「君」付けで呼び合うような代物ですし…
それらの物は、ほぼすべてが「水滸伝」、「三国志演義」そのままのタイトルではないですよね。作者の小説であることがわかるようなタイトルになっているわけです。

少々長くなってしまいましたが、以上が私の考えです。いかがでしょうか。

さささんには私とは反対の立場から、示唆に富むコメントをしていただき、私も勉強をさせていただきました。ありがとうございます。
  


Posted by はぬる at 21:43Comments(0)雑感・いろいろ

2013年08月22日

何だろう

カブトムシ・クワガタムシの街灯採集をしているのだが、やたらメスが多い。
特にカブトムシはメスだけ6匹に…
カブトムシは冬越えしないから、オスを捕まえて卵を産ませて…としたいのだが、オスがいない。
オスもいないわけではないが、いるときには必ず、変わり果てた姿で見つかる。
小型でいいから生きたオスを早く見つけたい。  


Posted by はぬる at 21:05Comments(0)雑感・いろいろ

2013年08月01日

三国志演義

ようやく諸葛亮登場。
今、張昭たちを論破中。

んでも、袁紹って日本政府を見ているようだった。  


Posted by はぬる at 20:27Comments(0)雑感・いろいろ

2013年07月14日

Are You In Exile?

Exileの意味
名詞…国外追放 亡命 国外放浪 流浪 追放者 流罪人
動詞…国外に追放する(受身で使われることが多い)
   亡命する

Exileとは、要するに権力からはじかれた人々のことを指す言葉だ。だから、彼らは「国」やら政府やらとは一定の距離を保つ。そして時には自分を迫害するものとして政府や権力・「国家」と敵対することもある。Exileとはそういった人々だ。

引用(なお、候補者氏名に関してはイニシャルに変えた)

ネットに自民候補応援写真 NHK、EXILEメンバー出演番組を放送延期
2013.7.13 08:30 [TV・ラジオ番組]    
 NHKは12日、人気グループ「EXILE」のメンバー、USA(36)が、自民党比例代表候補のI氏を応援している写真がインターネット上に掲載されたとして、USAが出演するEテレの番組の放送を参院選後に延期した。(サンケイスポーツ)
 NHKは理由について「報道機関として、政治的公平性に疑念が持たれないように配慮した。個別のケースをその都度判断している」と説明している。
 I氏が8日付のブログに、自身とUSAが並んでいる写真を掲載。USAは「日本の宣伝隊長! がんばってください」などと書かれたメッセージを掲げている。
 番組は12日夜に放送予定だった「Eダンスアカデミー」で、別番組に差し替えた。19日の放送も中止し、参院選後に放送する予定。
 I氏は、プリンのかぶりもの姿で「携帯哀歌」などを歌った音楽ユニット「東京プリン」のメンバーとして活躍したタレント候補。選挙運動が解禁されたインターネットを“主戦場”とし、遊説はせずにネット上で情報を発信している。自民党の公認を得た5月以降は、アーティストを取材しその模様をネットで公開していた。EXILEとの交流も深かったという。
産経新聞

EXILEが候補者応援、NHK番組中止 公平性に配慮[PR]
 NHKは12日、Eテレで放送予定だった番組の出演者が、参院選の候補者を応援する写真がインターネット上に掲載されたとして、この番組の放送を急きょ取りやめた。「選挙期間中は政治的公平性に疑念を持たれないよう配慮しているため」としている。
 番組は毎週金曜夜に放送中の「Eダンスアカデミー」。子どもたちにダンスを教えるためレギュラー出演している人気グループ「EXILE(エグザイル)」のメンバーが、自民党の比例代表候補者と並び立つ様子が、候補者のブログやフェイスブックで8日付で公開されている。
 NHKは来週19日の放送も取りやめ、参院選終了後の26日から再開する。
 問題の写真は、候補者とエグザイルのメンバーのツーショット。候補者は自身のポスターを持ち、メンバーは「がんばって下さい!!」と書き添えたサインを掲げている。今回の参院選からネット利用が解禁されて、候補者は公示後も、選挙活動の様子を自身のブログやフェイスブックで紹介することが可能になった。
朝日新聞  2013年7月12日20時57分

引用終わり

こんな権力べったりで、「君が代」なんか歌って悦に浸っているような奴らがExileなんて本当におかしい。
Exileと名乗りたいなら、むしろ権力やそれを象徴するようなものからは距離を保つべきなのだ。
それなのに、彼らは権力にどんどん近づく。そして意識してかしないでか、政府や権力者の広告塔になっている。
Exileならば、「日本の宣伝隊長! がんばってください」なんていわれたら、「私たちはExile(流浪者、国外追放者)なのだから、日本の宣伝隊長になれる立場にありません。」と答えるのが本当だろう。
あの人たちは恥ずかしくないのか。

もうExileなんて名前やめて、The Agent of Power(A.o.P) とか The Dog of Power(D.o.P)なんてグループ名に変えたらどうか。

この文章は彼らの社会に向き合う態度に対する批判文だ。

KARAWAN
タイにคาราวาน(karawan とか caravan と読むらしい)というバンドがあった。今もあるかわからない。彼らは何度か放送禁止・発行禁止になっている。(คาราบาวとの関連性とかよくわからないことが多いけれど。参考:カラバオバンドの歴史http://krung.exblog.jp/6710868  )
その彼らの歌に
คนไร้ราก (knlailakと読むのかな)というのがある。『根無し草』という意味だそうだ。
http://www.youtube.com/watch?v=4YLJSaIKJA4
http://www.youtube.com/watch?v=Y7qQtdqEE8U
歌詞の中身は全くわからないけれど、オレはこの歌(曲調)がタイトルにマッチしていてすごく説得力を感じた。
คาราวานはこのような歌も歌っている。
http://loogthungthai.blog34.fc2.com/blog-entry-179.html
http://loogthungthai.blog34.fc2.com/blog-entry-278.html

ついでに
http://www.youtube.com/watch?v=unEpBVRUDX8

権力べったりの『Exile』と発禁処分を受けたこともあるคาราวานが歌うคนไร้ราก…

やはり日本の『Exile』はExileではないと思う。
そして、つくづく日本社会には『水滸伝』と水滸伝のような関係が多いなと思う。
日本社会には文化人や芸能人など、多くの人の注目を集めるような人に、社会的なまなざしが全くないか、強い権力に対してあまりにも無批判・無自覚な人が多すぎるような気がする。

今回のExile然り、長嶋茂雄然り…
オレはこのような人たちに対して全く評価しないばかりか、正直、軽蔑の念さえ覚える。
逆に自身の社会的な地位を自覚して、社会を批判的に考えようとする姿勢のある人を評価する。しかしそのような人はあまり表に出てこない。

本質を追究しない社会…日本

でも、本当にそれでいいんだろうか。
  


Posted by はぬる at 15:20Comments(0)雑感・いろいろ