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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2009年01月29日

水滸伝と三国志演義

日本では「三国志」は非常に有名だ。
 多くの関連出版もでているし、小説やマンガなどもかなり出回っている。
 それに比べ水滸伝はタイトルは知っていても内容は知らない、と言う人もかなりいるのではないかと思う。
 本場中国では、水滸伝と三国志演義はともに四大奇書だとか四大名著だとかのくくりに入れられる。
 幼い頃に西遊記でわくわくし、反骨心が生まれる青年の頃に水滸伝を読み、恋愛の妙を楽しみたいなら、紅楼夢や金瓶梅を読み、立身出世を夢見るなら三国志演義を読むと言うことらしい。
 だから中国では、武松や魯智深などの名前は誰でも知っている。劉備や曹操、孔明の名が知られているように。
 それで水滸伝のファンの私としては、この、「日本では水滸伝が、『三国志』ほど知られてない」と言う現実は、結構寂しいものがある。

 なぜこのような状況になっているか、考えてみた。
 “三国志”が有名になったのにはおそらく吉川英治氏の小説「三国志」の影響が強いのではないかと思う(あまり確固たる根拠はないのだが)。横山光輝氏のマンガ「三国志」が吉川英治氏の「三国志」をベースにしたもので、それが子どもたちによってよく読まれていて、大きな影響を与えているとするなら、日本での「三国志」は小説「三国志」のことを指している、と言えなくもないのではないか。
 日本では一般的に、一連の三国をめぐる物語を三国志演義とは呼ばない。単に「三国志」と呼ぶ。しかし吉川英治氏が下敷きにした物語のタイトルは、「三国志演義」なのである。そして小説「三国志」には、演義にないエピソードが入っていたり演義にあるエピソードが削られている事もあるらしい。
 だからある意味では日本において三国志≠三国志演義なのだ。
 そして小説「三国志」が“三国志”として認識されると言うことは、小説がとても優れていた、と言うことではあるのだろう。ちなみに私は小説の方は、何回となく挫折しているが…

 と言うわけで、日本の三国志人気に乗り切れず、三国志人気に嫉妬した水滸伝ファンがゴニョゴニョつぶやいてみた。
  

Posted by はぬる at 15:32Comments(0)

2009年01月27日

斎藤対吉村は自民対民主ではない

 今回の山形県知事選挙は全国的にも注目されていたようで、全国ニュースでも取り上げられていた。
 が、取り上げ方に問題があるように思われる。
 つまり、衆議院選の前哨戦と言う位置づけからか、自民対民主で民主が勝った、かのように取り上げているのだ。
 おかしいだろ。
 吉村候補には民主以外にも社民や共産、果ては自民の議員も応援していた人がいたのに、なぜ民主だけが代表面しているのか。

 山形の衆議院選では民主と社民が協力するから、これは一セットに考えてもいい部分もあるだろう。しかし問題はそう単純にはいかない。

 実は今回、私は白票との2択でだいぶ悩んだ。投票会場まで悩んだ。それは白票以外では、結局自民か民主のどちらかを選んだ、と言われかねない危惧があったからだ。少なくとも私は自民民主どちらも支持しない。それなのにマスコミや財界、自民民主が望んでいる2大政党に向けた枠組みの中では、斎藤に入れようが、吉村に入れようが、結局、「自民を支持した、民主を支持した」と捉えられかねない事が分っていたからだ。そして案の定そのように報道されている。
 これは、そのような報道になることは分っていたことだが、結構惨めだ。なぜなら、自民民主どちらも支持しないけれども、白票以外の票を入れた人の投票行為を無視する事に他ならないからだ。
 例えば民主は支持してないけど吉村候補に入れた人は、自民対民主と言う構図を無理やり持ってこられると、自分が投票した候補が勝った気分には全くならない。
それどころか、投票した意味すら見えなくなるのである。

 要するに二大政党制と言うのはかなり民意を捻じ曲げるだけでなく、投票や選挙の意味を軽くしてしまう最悪な制度ではないか、と今回知事選挙をめぐって考えた。  

Posted by はぬる at 17:43Comments(0)

2009年01月23日

彼岸 the other bank


 1995年山形国際ドキュメンタリー映画際で上映された『彼岸』という映画。
 仏教用語ではなく、中国語で「向こう岸」という意味になる。演出家牟森による同名の演劇を練習から公演が終わって、その後までを淡々と撮り続けた映画だ。
 しかし当時高校生だったオレはあまり内容がつかめなかった。何せ言語は中国語、字幕が英語という代物で、しかも字幕の速いことはやいこと。(だから、この記事の内容も、映画の内容を正確に捉えたものではない事を断っておく)
 今思えばオレはあの映画を見たとき、『彼岸』という映画によって『彼岸』にたたされたのかも知れない。
 
 『彼岸』とは何か。こちら側の岸には困難がたくさんあって向こう岸に渡りたいのに、向こう岸がぼんやりとしか見えず、川を渡ることが困難なとき、人はきっと「向こう岸には何かすばらしい物があるに違いない」と考えるのだろう。そしてそれは多くの場合、幻想に過ぎない。
 映画では『彼岸是什么?(彼岸とは何か)』という質問が良く出ていた。
 ある人は『彼岸是一场梦(夢だ)』と言い、又ある人は『彼岸是幻想』と言う。『彼岸』の出演者は演劇『彼岸』の公演が終わった瞬間『彼岸』にたどり着いたと錯覚した、と言う意見もあった。

 ひょっとすると彼らが公演を終えた瞬間、彼らにはまた新たな『彼岸』が出現していたのかもしれない。
 演劇に参加したのは、演劇に対して夢を抱いている10代後半から20代前半の若者達だ。牟森の演劇をとおして、自分の夢をかなえようと地方から北京に集まった。つまり彼らは、演劇『彼岸』の準備をする何ヶ月かの間、ずっと公演と言う『彼岸』に向かっていたわけだ。
 映画は公演が終わって3ヵ月後の出演者達を映していた。北京にとどまって演劇の新しいチャンスを待つ者、待ちきれず別の仕事をしなければならない者などの姿があった。結局、演劇『彼岸』は、彼らにとって公演が終わってみれば、彼岸でもなんでもなかった。

 最近山形ドキュメンタリー映画際の昔の映画を見られると言うことで14年ぶりにこの映画をみた。
 今世界中が『彼岸』を夢見ている。世界中が不況だと言われる中、アメリカで新しい大統領が誕生したからだ。
 しかし、彼がどの『向こう岸』にオレ達を連れて行こうとしているのかしっかり見極めなくてはならない。日本の小泉元首相や韓国の李明博大統領のように『彼岸』の夢を見させるだけ見させておいて、そこは『彼岸』でも何でもなかったなどと言うことがないように…

 そしてその事は、何も国際政治だけの話ではない。山形では県知事選挙がたけなわだ。ある候補はオバマ新アメリカ大統領の「change」をパクってスローガンにしていたりする。センスがないなとも思うが、対立候補だって似たようなものだ。
どの候補も『彼岸』を口にする。その『彼岸』がオレらにとって本当に『向こう岸』なのかしっかり見極める必要があるだろう。  

Posted by はぬる at 15:03Comments(0)