2009年03月25日

国際試合を考える

今日のWBC 日韓戦は、決勝戦の名に恥じない、いい試合だった。
9回裏の同点シーンや10回表の決勝打のシーンは本当に見ていてすごかった。
こう言うどんでん返しや駆け引きがあるから野球は面白いのだなと、つくづく思う。

それだけにマスコミの報道の仕方には興ざめさせられた。
国際試合の見方には人それぞれの見方があるだろう。
もちろん「自分の国を応援する」という見方もある。
それはそれでいい。

しかしそれだけではないだろう。
国際試合の見方には人それぞれの見方がある。
国際試合であるがゆえの、トップレベルでの競い合いやいろいろなプレイスタイルを楽しむ、という見方があったっていいはずだ。
しかしWBC報道全般をとおしての低レベルな「日本は勝たなきゃいけない」コールは、オレに「野球を楽しみたいがための報道ではないのだな」と思わせるには充分だった。

特に「日本のほこり」だとか「日の丸を背負って」だとか…
「たかが野球の試合に何を言っているのだ?」と思ってしまう。
別に選手たちに日本を背負ってもらわなくて結構だし、
彼らが勝ったからといって、明日からのオレの生活が劇的に変わるモンでもない。
それより、いい試合、いいプレー(もちろんこれらも人によって意味合いは変わってくるが)を見たほうが励みになったり、影響を受けたりするだろう。そしてそれは本来、日本だ、韓国だと言うのは関係のない話だ。

そもそも「日本」という言葉だってあいまいだ。
何を持って日本とするのか、彼らが背負っている日本とは何か、1億2千万人も人がいればそれだけの日本像があるはずだし、それはたかだか30人やそこらに集約できるほど単純なものではないはずだ。
それなのにマスコミは安易に「日本を背負う」などと言う表現を使ってしまう。
そうやって安物のナショナリズムを煽るだけ煽る。

その裏で国際試合でしか見られないような、トップレベルのプレーや駆け引きなどはどんどん隅に追いやられてしまう。

このことは野球だけにとどまらない。
ほとんどの国際試合の報道がこういった現象に陥る。

サッカーだったか…「ドーハの悲劇」?
言っちゃ悪いがバカバカしい。たしかに当時の選手たちには悲劇かもしれないけれど、あくまで選手たちだけの話だ。それに、相手チームの選手がまさにすばらしいプレーをしたってことだろう。それを賞賛する言葉を、オレは日本国内で聞いた事がない。
またそんなことが悲劇になるのなら、東南アジアや東アジアでサッカー(でなくても、いろんなスポーツ)の国際試合があるたびに、日の丸掲げて君が代を歌う、同じ服を着ている日本人たちを迎えなきゃならない、現地のお年寄りにとっては、そっちの方がよっぽど悲劇だろう。

「絶対に負けられない戦い」?
特に国際試合において、試合に負けるつもりで参加する選手はいないだろ。どのチームであれ「絶対に負けられない」のはどこも同じだ。そんなことをわざわざ強調するのは、難しい数学の問題をとこうとしている数学者に「1+1=2です。」と言っているようなものだ。

「日本中、皆が日本を応援している」?
いやいや、興味ない人間だっていっぱいいるだろ。
少なくとも日本人だから日本チームを応援しなきゃいけないなんてオレはヤだね。

スポーツを観戦するとき、それがどのチームの選手であっても、すばらしいプレーを見ればたいていの人は感動するはずだ。それなのに日本だ、韓国だと枠をはめてしまうのは損でない?

まあ、このことは韓国の報道にも言えるんだけれど、もっと選手を解放してあげたらどうか。
別に日本のために戦わなくていい、日本を背負わなくてもいい。そんなことしても、誰にも何にもならないから。
自分のためにのびのびプレーすればそれでいいんじゃないかと思うのだが。

  

Posted by はぬる at 01:37Comments(0)

2009年03月19日

なんだよ“ジャパン”って

今日WBCの日韓戦を見た。
“侍ジャパン”というチーム名にはもともとアホかと思っていたが、
放送中一貫してアナウンサーたちは“日本(チーム)”ではなく、“ジャパン”と呼んでいた。

意味わからん。
日本の放送局で、日本向けに流される放送で、日本チームを呼ぶ呼称に、わざわざ英語を使う理由なんてないだろ。
ひょっとして“侍ジャパン”の“侍”をずっと省略していたのか???
省略しなきゃいけないようなチーム名なら、チーム名を付ける必要もない。
“日本チーム”の方がずっと単純明快で良い。

そうでなく単に“ジャパン”という英語を使ったチーム名で呼びたいだけだったなら、日本チームの試合より、アメリカチームの試合なりを放送しなさい。
そのほうが日本向けの放送でも、抵抗なくどんどん英語を使ったチーム名を呼ぶことができるはずだから。


日本の古人、吉田兼好は以下のように言っている。

第百十六段
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

(第116段 寺の名前や、いろんな物に名前を付けるとき、昔の人は多くは求めず、ただありのままに、簡単につけた。このごろは深く考え、才覚を見せつけようとしているように聞こえて、本当に嫌らしい。人の名前も見慣れない文字を使おうとする。利益のないことだ。何事も珍しいことを求め、異説を好むのは浅才な(才覚のない)人が必ずしようとすることだ。) 

  

Posted by はぬる at 01:35Comments(0)