スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2010年06月17日

安保雑感 その2 日本人の戦後史観

 多くの日本人は、戦後日本が世界有数の経済国家になったのは、戦後復興に日本人特有の「勤勉さ」「まじめさ」で取り組んだから、と考えている。50年代の朝鮮戦争による特需で経済の復興の足がかりを作り、64年の東京オリンピックに向けた開発などで高度経済成長期に入り、国際的な地位を向上させていく。「Always 三丁目の夕日」といった映画に人気が出たのは、現在の下降傾向にある日本社会に住む人々が、戦後自らの「勤勉さ」で日本社会を立て直した頃を懐かしんでいるためだと考えられる。何をやっても閉塞状況が打開できない現状では、がむしゃらに何かをすればするほど状況が良くなっていった時期が懐かしく感じられるのは、ある意味で当然のことだろう。
 そもそも「勤勉さ」が日本人特有のものなのかも議論の余地があるが、そこは置いておくとしても、日本の戦後復興や地位向上、経済発展は日本人の「勤勉さ」のみによってもたらされたのだろうか。このことを歴史的に考えてみたい。
戦後、アメリカとソ連の対立がはっきりしてくると、アジアでも陣営分けが進んだ。この中で、1949年の中国共産党の勝利はアメリカにとって大誤算だった。戦後直後アメリカは中国を、アメリカに都合のいい、アジアの資本主義陣営の中心国としての役割を担わせようとしていたからだ。1946~1947年の段階で、国民党の不利がアメリカに伝わると、その役割を日本に担わせようと占領政策の転換が行われる。日本の占領政策は一般的に、民主改革と認識されているがそれは占領期の前半のみで、ソ連の原爆開発や中国の共産化(?)などと期を一にして、逆コースと呼ばれる経済復興に重点を置いた政策に変わっていった。これは、中国で実現できなかったアメリカの思惑を、かわりに日本に担わせようとするものであった。したがって当然のごとくアメリカからは、日本に対して多大な援助が送られるようになる。アメリカにとって社会主義の防波堤としての日本列島および琉球列島は、日本が経済的・軍事的な拠点、沖縄が軍事的な拠点として重要なものになっていった。そういった理由から日本の国際社会復帰が急がれたし、経済復興も積極的に行われた。またその一方で、軍事拠点の位置づけから安全保障条約が結ばれた。
 日本の戦後復興は確かに日本人の「勤勉さ」による部分もあるのだが、何よりもアメリカの思惑によってなされた部分が大きい。そしてその復興は安保条約と表裏をなす。安保体制によって組み込まれた国際社会の中で、ぬくぬくと守られながら、戦後復興を果たしたのが日本社会であって、日本の復興は非常に有利な条件のもとになされたものだった。しかし多くの日本人はこの点についてほとんど無頓着である。
 今、日本が下降傾向にあり、多くの人が高度成長期を懐かしんだり、また日本の国際社会における地位の向上をのぞんだりしているが、厳しい言葉でいえば「日本人の手自ら社会変革をしたことがない、戦後復興も偶然のたまものなのだ」ということをまず意識しないと、どうにもならない。そして安保体制と表裏をなした経済成長では、結局、現在のような閉塞状況は打開できないし、また同じことの繰り返しだということを知るべきだろう。

その3に続く  

Posted by はぬる at 23:17Comments(0)日本とは