2011年02月06日

それは「ホントウ」なの?

吉川英治氏の『三国志』はあくまでも小説であって翻訳ではない。
同様に、安能務氏の『封神演義』は翻訳ではない。
あれは、原典を基に安能氏がアレンジしたもので、良くいえば意訳、翻案であり、はっきり言って安能氏の私的な小説である。
吉川氏と決定的に違うのは、小説であることがはっきりしているかどうかである。
この点で『封神演義』の文庫本には「訳」と書いてあるのでたちが悪い。
駒田信二氏による『水滸伝』などの、信頼できる翻訳であれば、
註釈や、どのように訳したかがわかるような断り書きが必ずある。
エンターテイメントだけでなく、中国の古典としての学問的な意味合いもあって、
そのような断り書きや註釈を載せているのだ。
しかし、安能氏の『封神演義』にはそれがない。
そのことも含めて安能氏の『封神演義』を批判しているサイトをちらっと見たら、
『封神演義』が大好きな人たちからの反論に、以下のようなものがあった。
 
  原典がどうであれ、面白いからいいじゃないか。

ここでの問題は、『封神演義』が中国でどういう位置づけであるのか、
安能氏の『封神演義』は、その位置づけを尊重しているのか、ということである。
少なくとも、初めの文章を読むと、尊重しているとは思えないような内容が書いてある。
(中国三大奇書の下りや、孔子は呂尚を否定した文化マフィアだ、などの下り)

面白ければいいという発想に対して疑問に思うのは、
『封神演義』が中国でどういう位置づけであるのか、
安能氏の『封神演義』は、その位置づけを尊重しているのか、という点を軽視しておきながら、
本当に『封神演義』が好きだ、と言えるのかということである。
彼らは安能氏の小説『封神演義』が好きなのであって、『封神演義』が好きなわけではないのだろう。

似たようなことは歴史にも言える。
日本の歴史修正主義者たちは明治以降の近代史に対して「司馬史観」という言葉を使う。
自分たちの歴史の見方が「司馬遼太郎の歴史の見かた」を基本にしている、ということだろう。
けれど、ちょっと待ってほしい。
司馬遼太郎氏はあくまで小説家であって歴史家ではないのだ。
彼の文章には脚注は必要ないのだ。
小説には学問的な正しさはあまり必要がないからだ。
しかし歴史家の文章には脚注が必要になってくる。
それは学問的な正しさに忠実であろうとすればするほど必要なものなのだ。
だから、歴史学の関係者たちのうちで「司馬史観」を支持する人はいないだろう。
そして「司馬史観」を支持する人たちは学問的な正しさに興味がなく、
ただただ、司馬遼太郎氏の頭の中の近代史にのみ興味があるのだ。
だからこそ、韓国併合の際の日進会の勢力を過大評価して、義兵闘争を無視したり、
アイヌや東北、沖縄、朝鮮、台湾の視点が抜け落ちても平気でいられるのだ。
「日本人」と誰かが言ったとき、「司馬史観」は座りがいい。
けれどそれは学問に裏打ちされたわけではないため、誰かの勝手な妄想にすぎないことに注意すべきだ。

「司馬史観」は歴史学ではない。だのにその考え方が一定の影響力を持っているのは
日本社会が
「面白いからいいじゃないか」のような「簡単さ、わかりやすさ」に弱いってことなのかもしれない。  

Posted by はぬる at 17:44Comments(0)