2011年07月28日

イビサ

山形県上山市にある洋食屋 イビサ。

もう34年になるという。

上山には他にも「メイプル」だとか「ルイジアナ」、今は和食屋になっているお店(店名忘れた)なんかがあったが、少しずつ消えていった。

上山ではなかなか『洋食』自体が根づきにくいのかも知れない。

その中でイビサは34年の間上山に洋食を提供し続けた。
これはすごいことだと思う。

で、そのイビサに行ってきた。





ここに来ると普段、たのむのはナポリタン。



いろいろな地域にすんだが、このナポリタンを超えるものにあったことがない。
んでもこの店は、カツカレーもおいしいのだ。
いつもかなり悩んで、結局毎回選ばなかった方を選べばよかったと後悔する。

そのほかにも若鳥のから揚げもたのんだ。



これが、実にあっさりしていて、もういくらでも入ってしまう。
付け合わせの野菜と一緒に食べてもいい。

料理を食べて幸せになる瞬間だ。

このお店にも、この先ずっと上山の人々に幸せを提供してほしいと思う。
  


Posted by はぬる at 13:55Comments(2)山形・上山

2011年07月27日

言葉って不思議

「私はウソつきである」

この文章、とっても奥が深かったりする

^-^  
タグ :矛盾


Posted by はぬる at 23:25Comments(0)雑感・いろいろ

2011年07月20日

自分を「国」と一体化させる人たち

今回の女子サッカーW杯では、日本チームが優勝した。
これはあくまで彼女たちがすごいのであって「日本」がすごいのではない。
はやぶさが惑星探査からいろいろな障壁を乗り越えて帰ってきた。
このことははやぶさの研究チームがすごいのであって、「日本」がすごいのではない。
しかし、一部の人たちはこれらの成功を「日本がすごいのだ」と意味を変えてしまう。
サンプルとして『シートン俗物記』さんのこの二つのエントリーのコメント欄に注目してほしい。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110716/1310803436#c
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110719/1311067204

その中でも象徴的なコメントをあげてみる。(基本的に原文ママだが改行だけ手を入れた)
灰汁の強いものを選んだことは断わっておく…

…………………………………………
うむ 2011/07/17 05:57
(前略)
あと、日本代表に対する嫌悪感もなんだかなあ。自国の国をとことんひいきして応援する人々なんて世界中に溢れているわけだし、あえて否定することじゃないよね。
別に自国の代表だからって応援しないのも選択肢だけど、あれだけオリンピックやワールドカップが盛り上がっている事実をもう少し踏まえたほうがいい。

日本は素晴らしい国 2011/07/17 08:02
日本万歳!
頑張れ日本!
日本人に生まれて本当に良かった!
自分はなでしこジャパンを見てて素直にそう思えます。
しかし、ブログ主の考え方って吐き気がするわ。
日本・日本人に対して嫌悪感の塊で、いったいどこの国の人よって感じで・・・
まるで在日OO人の思考だぞ。

namae 2011/07/17 12:41
スポーツに対する興味の入り口は何でもいいんじゃいの?何をそんなにプリプリしてるのかまったく理解できんわ。日本人が世界で活躍する姿を見られるのも単純に嬉しいでしょ。
(後略)

在日消えろ 2011/07/17 15:00
何処の国でも自国の選手が世界1を狙っている競技にはスポーツ嫌いの一般人でも応援をする。日本が特殊とでも言いたいのか、この低脳は。在日のくせに生意気に日本人のふりして日本人を批判しているつもりだろうが見え見えなんだよお前が支那朝鮮系なことは。
……………………………………………

このエントリーに批判的なコメントの多くに共通する点は無条件に「日本=自分」としていることである。
これらの書き込みをした人たちには、「①日本人ならば、日本が勝つと無条件にうれしがるべきなのだろうか」「②日本人ならば無条件に日本チームを応援しなければならないのだろうか」といった疑問はわけのわからないバカみたいなものだと思う。
しかし、はっきりしているのは、「すごいのは日本チームの彼女たちであって、日本国籍を有する人全般ではないし、彼女たちも日本チームだからすごいのではない」ということだ。仮に彼女たちが日本国籍を有していなくても、彼女たちはすごいのだ。それなのに、彼女たちを、「日本の選手」として称賛する。某石原東京都知事閣下は彼女たちに「勝ってくれてありがとう」と言ったようだが、彼女たちはありがとうを言われたくて優勝したわけでも、まして、某石原東京都知事閣下のためにサッカーをしたわけでもない。これなどはまさに「日本」を自分と一体化させているいい例だろう。
彼女たちに縁故も何もない人間にとっては、本来アメリカチームもドイツチームも、日本チームと大きな変わりはないはずである。彼女たちと共通しているのは、ただ一点、日本国籍を有する、ということのみだ。しかし、なぜ同じ国籍を有していることが、前述の①や②の疑問を解決するキーになりえるのかオレにはわからない。

以前、「日本人」が一挙に4人ほどノーベル賞を受賞したことがあったが、そのうちの一人は本当は日本国籍を有しておらず、日本人ではなかった。それなのにマスコミは彼を「日本人」として扱い称賛した。しかし、これは非常におかしなことだ。特に自然科学の分野などは、どの国の誰が称賛されるべき研究をしようが、同じことではないだろうか。仮にアインシュタインが日本人だったら、相対性理論の内容が変わるのだろうか。
しかし、実際には日本人ではない研究者を「日本人」として称賛した。なぜ、受賞した研究が「日本人」でなければならなかったのか、よく考える必要がある。

これらのことに共通することは、「国」と自分を一体化させてしまうということである。
「みんなが一つになって…」と言えば聞こえはいいが、日本人が12000万人いれば12000万とおりの日本像がある。ある人にとってそれは、「自分自身」と全く置き換えが可能なものかもしれないし、ある人にとっては明確に境界線が引かれているものなのかもしれない。「みんなが一つになって…」といったとき、それは自分が抱いている「日本像」以外の日本像を、切り捨ててしまっている危険性があることだけは覚えておいてほしい。

「国」は個人とは一体化しようとしない。だが、ある個人は「国」と一体化しようとする。そして一体化しないものを排除しようとする。戦前の「非国民」のレッテル貼りや今回取り上げたコメントに見える「在日」認定がその例である。けれど、「国」に一体化しようとする個人の動きは、権力者にとって非常に都合がいい。
また、「国」と一体化しようとする思考は、「国」を流動的なものとして捉えられない危険性もはらむ。今現在、「日本」に対しての認識は人それぞれで違うというだけで、すでに「日本」は流動的なのだ。それを無理に一体化させようとすると、その一体化の基準にそぐわない「日本認識」は切り捨てざるを得なくなり、よくて無視、悪ければ攻撃の対象となってしまう。『シートン俗物記』さんのエントリーにあがっている「マイナーなスポーツが注目されない理由」や、今回の女子サッカーのように「普段注目してないクセに大舞台になったとたん俄然騒ぎ出すニワカが増える理由」はこの辺にあるのではないかと思う。

「国」と個人を一体化させようとする傾向は日本に限ったことではない。
けれど日本のそれは非常に悪い傾向があると感じる。
少なくともオレが昔住んでいた国では、一般の30分しかないニュース枠で15分も使ってサッカーの勝負についての報道をしたりはしなかった(スポーツ報道の番組が別に確保されていた)。

ちなみに…
韓国人、中国人、日本人の3カ国のうち、一番愛国心が強い国民はどの国の国民だろうか。

多くの人は韓国人か中国人のどちらかを選ぶだろうか。









しかし、実際は日本人である。
韓国人も中国人も、良い条件でチャンスがあれば、国を出たいと考えている人が多い。国籍を変えることも、日本人ほど抵抗を感じたりしない。
韓国人も中国人も「国」は個人を守らないことをよく知っているからだ。
  


Posted by はぬる at 22:43Comments(0)日本とは

2011年07月20日

無批判でいられることが気持ち悪い

「なでしこ」という言葉が歴史的にどのような役割を担っていたか、無邪気に日の丸を振りかざし、一心不乱に君が代を歌う人たちにはどうだっていいことなんだろう。
その鈍感さ、無関心さは民主国家としての日本-日本国憲法下にある日本社会-には、そぐわない。
どうも、一種の違和感というか、ざらっとしたものを感じざるを得ない。
  


Posted by はぬる at 10:30Comments(0)日本とは

2011年07月18日

2

2 という数字、みなさんはどういうイメージがあるだろうか?

1の次、いつも二番目、とくにイメージはない。
宝くじなら、まぁ、2等でもいいかな…1等の方が断然いいけど。
そんな感じだろうか。

数学的に考えると2は素数であり、偶数である。
この二つを満たす数は存在しない。
数ある素数の中でただ唯一、偶数なのだ。
これって、地味にすごいことじゃないだろうか。

歴史的に考えても、本当にすごい人はNo.1になった人ではない。
いつもNo.2の立場で、No.1を支える存在がスゴイ能力を持っていた。

漢の韓信や張良、蕭何
蜀の諸葛亮
梁山泊の呉用

中国の古典を読むと、むしろトップに立つ者よりもNo.2の者が状況を動かしている。

それが2という数字だったりする。  
タグ :2数字


Posted by はぬる at 11:30Comments(0)雑感・いろいろ

2011年07月16日

アレを表現だというのなら、歌わない表現だってありえるだろう

オマエの表現なんかどうでもいいが、オレの表現は尊重しろ、
というのが透けて見えるようでした。
そもそも、公務員(教員)が君が代を歌わなければならないなんて法的根拠はどこにもないんですが…。
他者に日の丸・君が代を強制する条例を通しておいて
表現の自由を言うのは気恥ずかしくないですか?  

Posted by はぬる at 10:28Comments(0)日本とは

2011年07月15日

世界の捉えなおし…哲学

最近、『哲学的な何か、あと科学とか』というサイトにはまっていた。
一般的な哲学のイメージがどういうものか知らないが、このサイトは、「哲学って面白いものなんだ」ということを十分に伝えてくれた。

映画『マトリックス』は哲学的な要素を設定に持ってきてはいるものの、結局ハリウッドの映画の枠を超えることはできなかった。
それは本当に哲学に興味を持っている人には十分ではないと思う。まぁ、マトリックスはそういう人のために作られたわけではないから、仕方ないんだけれど。

『ソフィーの世界 - 哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ゴルデル 1995 日本放送協会)は、流行った頃に読んでみたが、哲学(あるいは哲学的問題というべきか?)の紹介というよりは、「誰それがどう考えた」という哲学者の羅列である、西洋哲学史の域を出ていないと感じた。

その点で『翔太と猫のインサイトの夏休み』(永井均 1995 ナカニシヤ出版)は、「誰それがどう考えた」という哲学者の羅列ではなく、物語仕立てで哲学の諸問題を紹介しているのでわかりやすかった。

この本には、15歳を過ぎたら本当の哲学はできなくなる、というような内容(うろ覚え)のことが書いてある。これは実際そうなのかもしれない。哲学で考えられていることはごく当たり前のことだからだ。「自分って何?」とか、考えても結局ごく当たり前の結論にしかならないことが多い。その思考過程において、映画『マトリックス』の設定に用いられたような事も考えるため、哲学の話題の中には不思議だったり、突飛だと感じたりするものもあるのだ。
ある当然の事柄を一生懸命考えて、考え抜いても現実的に仕方がない、ということが大人になるに従って経験的にわかってくる。要するに、「今が夢でなくて現実である理由」だとか、「なぜ赤は赤に見えるのか」、「自分が見ていない時でも友人や家族は存在しているのか」なんて考えたところで、現実的に何も変わらないし、よしんば「自分が見ていない時でも友人や家族は存在しているのか」ということが事実だとしても、確かめようのないことだから考えても仕方がない、ということが大人はわかってしまうから、世の中がわかり始める15歳あたりから哲学ができなくなるのだろう。

けれど、当たり前の事柄A(便宜上Aとする)について何の思考もなくAと認識するのと、A について考え抜いたうえでAと認識するのでは、世界の捉え方が全く変わってくる。つまり、哲学をするというのは世の中を捉えなおす、ということなんだろう。
これはかなり重要なことだと思う。

考えてみれば、いろいろな言説について日本社会は哲学をしているだろうか。例えば、このブログでも散々問題にしているが、「日本」「日本人」と一口にいった場合何を指して言っているのか、どれだけの人が思考しているだろうか。考えても仕方ない、考えるまでもなく自明のことだとして切り捨てた思考の中に、どれだけの「真理」が隠されているのか、そこはきちんと考え直すべきだと思う。

『哲学的な何か、あと科学とか』は書籍として2006年に出版されている。『翔太と猫の~』とあわせて読めば、さらに哲学に対しての理解が深まると思う。
哲学の本に自然科学の分野が顔を出すのは一瞬奇異な感じもするが、量子力学の話を読めば納得できる。光が粒子か波かの議論から始まった、電子の二重スリット実験による結果は、この世の中の物質が全て、(矛盾した二者が同時に存在するという意味で)言語道断で、でたらめなものから構成されていることを実証してしまった。
そういうわけで、量子力学は哲学的な問題をそもそもはらんでいるのだ。

んでも、矛盾した二者が同時に存在(すべてものを貫く矛と、すべてのものを防ぐ盾が同時に存在する状況を考えてみてください。電子は実験で、その状況に値する振る舞いをしてしまいました。)するものでできている世界というのは、結構面白いんじゃないかなと思う。
  
タグ :哲学世界


Posted by はぬる at 15:12Comments(0)雑感・いろいろ

2011年07月14日

うりひゃ~!でーじまーさんどー^▽^

夏になると、そーきやごーやーちゃんぷるーが食べたくなる。
…て、ことで山形市青柳にある美ら海(ちゅらうみ)に行ってきた。



島唄が流れる店内の雰囲気はまさにうちなー
こんなして泡盛が並んでるのもなんだか懐かしい



そーきとごーやーちゃんぷるーをたのんだ



店の人は少し山形の人の味にあわせている、と言ってたけど、あんまりそうは感じない
おいしかったので、がーして一気に平らげた
^-^

ところで、
こーれーぐーすー




泡盛にトウガラシをつけたもので、ピリッと辛く、そーきにかけて食べる
けれどオレはごーやーちゃんぷるーにもかけて食べる
薬味だけれど、あまりかけすぎると飲酒運転になるのかなとも思うが、それでもかけてしまう

こーれーというのは高麗、ぐーすーは薬、という説がある
トウガラシのことをこーれーぐーすーと呼んでいたが、次第にこの薬味も呼ぶようになったとのことだ
琉球王国の交易時代に朝鮮(高麗)から伝わった、らしい
らしい、というのはトウガラシ自体もともと
ポルトガル→日本→朝鮮(秀吉の朝鮮侵略の時、という説がある)→琉球
と、いろいろ旅しているからだ
少なくとも、琉球の人は交易を通してトウガラシを手に入れたこと、交易網の中には琉球-朝鮮(高麗)ラインがあったことを示唆している
こーれーぐーすーは、現代の食卓にありながら、明(清)を中心とした冊封体制の中でアジアが大いににぎわっていた時代の様子を伝えてくれる生き証人だったりするのだ  


Posted by はぬる at 11:03Comments(6)山形・上山

2011年07月07日

めんたいすてぃっく

メンタイスティック
皆さんはこの響きから、何を想像されるでしょうか。

明太子を使った何か…?
スティックという響きからお菓子の可能性も…?



いえいえ、衣をスパイシーにした鳥の手羽先の揚げ物でございます。
山形は上山の鮒忠という会社が出している商品です。

……………………………

鳥の手羽先の揚げ物でこれに勝るものはないと個人的に思う。
お酒のおつまみにもいいのだが、
熱くてこい緑茶と、炊きたての白いご飯、それにこの揚げたてのメンタイスティックは最強の組み合わせだ。
B級グルメなんてのが流行っているらしいが、これはB級グルメになるのかな。
もっとも、オレは「B級グルメ」なんて物言い自体が好きではないが。

パッケージはこんな。口あけちゃったけど…


揚げるとこんなになる。


これがないたって、んめなよ~^0^/

個人的にいつまでも残っててほしい食品の一つだ。

………………………………
みなさんも上山にお越しの際はぜひお買い求めください。  


Posted by はぬる at 20:06Comments(2)山形・上山

2011年07月07日

無理してがんばらんくていいさ~東北

巷には「がんばろう東北」なんて言葉があふれている。
その欺瞞性については以前書いた("がんばろう日本""がんばろう東北"の呼びかけがウソな理由)。
んでも、そんなにがんばらんくてもいいよ。
明治以降、散々中央の政府にいじめぬかれて、それでもがんばってきたんじゃないか。
東北の基幹産業である農業は、近代化、工業化、減反、高度経済成長、輸入自由化、そして今またTPPと相当に長い間否定され、生かさず殺さずでいいように扱われてきた。
それでも、現在も東北6県に農業が根付いているのは、東北の人たちが相当にがんばってきたからじゃないか。これ以上何をがんばれというのか。

がんばろう東北に同調する人は、輸入物の牛肉なんて食べないんだろう。ましてや輸入物しか使っていない牛丼屋チェーンなんかには絶対に行かないだろう。
がんばろう東北に同調する人は、東北の歴史や文化を、受動的なものではなく、能動的に見ようとする覚悟があるんだろうか。

もちろん復興は大事だ。けれど、何のビジョンもなく、以前の東北の姿に戻そうというだけの復興なら、それは全く意味のない復興だ。地震と津波はいっぺんに東北人の生活を奪ったが、TPPや農業否定の政策はゆっくりと東北人の生活を奪う。スピードの差こそあれ、生活を奪うという点では同じなのだ。もっとも、後者は生活のみならず、東北人のアイデンティティや東北に長い間根付いてきた文化すら奪うものでもある点で地震や津波とはまた違う。
旧態依然の東北のイメージのまま、復興を言われても、がんばろう東北と叫ばれても、すぐに生活を奪うのでなかったら、ゆっくり生活とアイデンティティ、文化を奪うだけで、そんなのは意味がない。

東北人はもっとわがままを言うべきだ。もっと感情を表に出すべきだ。

地震後、ACのCMがたくさん流れた。その中にはSMAPとトータス松本が出てくるものや、サッカー選手が「ニッポン、ニッポン」と連呼するものがあった。これらのCMは本当にいやらしくて嫌いだった。トータスに対しては「日本が強いからって何なんだ。その強さは東北をはじめとする日本に無数にある地方から搾取してきた結果だろう。威張れるもんじゃない」、サッカー選手に対しては「勝手に一つのチームにすんなよ。日本ってそんな風にひとくくりにできるほど画一的なのか?いや、そもそも地方の独自性なんか全く興味ないから勝手に一つのチームにできるんだな」と思っていた。同じACのCMなら東北六県のゆるキャラが、東北6県のうまいものを紹介するCMが好きだ。山形はお好み焼き(どんどん焼き)だったが、CMに使われている言葉は各県の言葉で「くってけろ」とか「んまいぞ」というものがほとんどで、ナレーションは「うまそうだねぇ。誇ろう、ふるさとの元気。東北」だけだ。ここには「がんばれ」という言葉も「強い」という言葉も全くない。全く素朴に東北にはこんなうまいものがいっぱいあるんだ、と言っているにすぎないCMだ。けれど、ほかのどのCMよりも東北人の気持ちにそっていて、力を与えるCMになっていると思う。

無理してがんばらなくてもいいのさ。
ただ自然に、「もう一度あのおいしい○○食べたいなぁ」、「あの場所に行きたいなぁ」と思えればそれでいい。
「がんばる」という言葉はこれらの自然な想いを押し込めて、かき消してしまう。
けれど自然な思いが「強さ」に一番つながるんじゃないかな。
  


Posted by はぬる at 12:19Comments(0)山形・上山

2011年07月04日

やくせない味

昔、学校の行事で蔵王登山があった。
確か夏休みだったと記憶しているが、山頂に着いたときはみんな喉が渇いていた。
丁度、自動販売機があって、コーラをはじめとする様々な飲み物の中には、やくせない味も売っていた。
それぞれ好きな飲み物を買っていたが、俺はスポーツ飲料水にしようか、やくせない味にしようか迷った。
けれど、汗だくになった後では、炭酸は少し遠慮したいということもあって、スポーツ飲料水を選択した。
「やくせない味は下界に降りたら何ぼでもあるだろう」という考えもあった。
しかし、そのころすでにやくせない味は生産をやめていた。
下界に降りたら…と思ったのは、その何日か前に近所の商店にジャンプを買いに行ったとき見た為であるが、今思えば確かにそのころにはすでにあまり見なくなっていた。
やくせない味を最後に見たのは、その蔵王登山だった。
そのとき買ったスポーツ飲料水は今でもふんだんにみられる商品だ。
蔵王登山の時にスポーツ飲料水ではなく、やくせない味を買っておけば、たぶん、こんな20年近く前の小さな出来事は印象に残っていなかった。
もうやくせない味を味わえない、と気付いた時はすでに遅かった。

まだ、缶ジュースに350mlカンがあり、1つ100円、ジャンプが一冊170円の頃の話だ。

考えてみれば、好きだったけどいつの間にか姿が見えなくなったものがけっこうある。
エスニカン、ルイジアナ、ビックリマン、カフェインが通常の2倍入っているというコーラ(商品名忘れた)…
お菓子などに限らなくても、
カルビナ(という喫茶店でイビサの隣にあった)、タマミヤ、ナナホシテントウ、カメノコテントウ(フタツボシテントウはよく見るが)、ホップ畑、桑の木…

先日某コンビニによったら、復刻版としてやくせない味を売っていた。
今度はためらいなく買った。



訳せない味、メローイエロー…
もうすでに味など忘れていて、飲んでも懐かしいとは思わなかった(どころか、こんなもんだったっけ?と思ってしまった)けれど、
パッケージは懐かしく、いつの間にか消えていったいろいろなものを、懐かしく思い出すきっかけになった。


※この文章を書く今の今まで、「訳せない味」を「やるせない味」と思っていた。
 念のためにとネットでメローイエローのCMを調べたら、「訳せない味」が正しかったわけで、それを知った時はやるせなかった。
 いや、「やるせない味」ってどんなんだよ…  


Posted by はぬる at 21:06Comments(2)雑感・いろいろ