2011年10月23日

洞窟にこもる山椒魚たち

似た意見の者のみが集まる場では、次第に先鋭化していく
…とはどこかで聞いた意見ではあるが、なるほど、それがよくわかった。
某掲示板、正直2chとなんら変わらない水準まで堕していると感じた。
今回のエントリーは、対象(根拠)となるものを引用する紙幅も気力もないのでここには乗せない。だから、チラシの裏の落書きと考えてくださって結構だ。
それでも気になる、という方は、前エントリー『「風評」も「差別」もないことにしたい心理』の451氏のような言説を思っていただければよい。

さて、某掲示板で見られた、傾向は次のとおりである。
1、論争相手の主張を読まない
→主張の細部にのみこだわり全体を見ようとしない
→文章中の因果関係を平気で無視する
→相手の主張を意図的に捻じ曲げる。
 どうしても相手が「自分が解釈した通りのこと」を言っていることにしたい。
 自分の解釈が間違っている可能性もあるのにね
→××(あるカテゴリー。ネトウヨとか)の言うことは○○と決まっている。だからオマエもそういっている
→印象操作も辞さない
→わざとなのか素でそうなのか、日本語を日本語の文法で読まない。
 (不思議な日本語になっているけど、実際そのような場面に出くわした。自説のためには文法すら無視して読んでしまう、ということなのだろう)
→ひどいのになると、自分のコピペしてきた文章に書いてあるのに、「書いてないじゃないか」とのたまう

2、安易に決めつける
→○○と同じことを言っているから、オマエは○○
→○○なら当然こう言うだろう、こう言うべき。なのにそう言わないのは××だからだ
→相手の意見や相手そのものに罵倒の言葉を投げつける
→この掲示板には自分と同じ意見の人間しかいない、と思っている節がある

3、自己省察をしない。謙虚さがない
→上記のようなことを指摘すると、オマエの論調が悪いと来る
→自分の読みが悪かったのかということもない。
→差別や風評を「本人も気づかずにしてしまう」可能性の否定。
 …オレはそんな自信ないです。

4、自己の考えがない
→最近のカキコの多くは誰かのツイッターをコピペするのみ。それに対する自己の見解など皆無
→論争相手に対しても突っ込みのみ。自分の考えはない。
(だから安易に自己を自身と似た他者と同一化してしまうし、論争相手も自己が嫌う他者と同一化=レッテル貼りをしてしまう)
…で相手がその答えにまわっているうちに、主張をぼかす
→自己陶酔。自称武闘派とか「○○という意見は許せないんだ」など…
 相手がなぜ「○○」という意見を述べたかについては微塵も考えない
→0か100かの二元論に陥っている。そしてそれが正しいと思っている。
 二元論では拾い上げられない視点が必ず出てきてしまうことには思いも至らない。そういう視点は切り捨てていいとでも思っているのだろうか。

ざっとこんな感じか。まだあるような気がするが、思い出したらその都度追加する。こう言った人間が全てではないだろうが、少なくとも一定数いて主流に近い論陣を張っているのが、某オルタナティブ@政治経済版の原発に関する言論(と呼べるかどうかも怪しいが)空間の現状である。

このような現状は、彼らが忌み嫌う2chのネット右翼や嫌韓厨とどう違うのだろうか。正直私にはその違いがわからない。方向性は違ってもやっていることは一緒なのだ。

オレはこれらの現状を見ているうちに、洞窟にこもって出てこない山椒魚を思いだした。
洞窟の中はそれなりに居心地がいい。その中で心地いい言説のみを言いつのって、洞窟の外にある数多くの言説を罵倒していれば、自身は「武闘派」などと格好よく奉られるだろう。
しかし、それはあくまで洞窟の中だけの話である。
一歩外に出てみれば、「危険だ」「放射能にまみれている」と言われている地域にも、ふつうに人々の営みがあるし、自分が育てた農作物が国の定めた基準値をパスしたことで安堵している生産者の顔がある。
洞窟の中の山椒魚は洞窟の中にこもっているがゆえにこう言った人々の顔を思い浮かべることができない。ましてや洞窟の中の「正論」が彼らには全く届かないことも、洞窟の中にいるがゆえに(そして洞窟の中が世界で一番広いんだと思っているがゆえに)知る術はないのである。
だから-そこに住む人々の、震災前と大きく変わらない生活を送る人々の顔など微塵も思い浮かばないから-「島流し」などと言う表現を肯定できてしまうのである。
そのような人間の言う「原発で被害にあっている人が心配」という言葉のなんと薄っぺらなことか!!
  


Posted by はぬる at 10:50Comments(0)山形・上山