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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2012年03月14日

1年後の震災レポート1

テレビでは「被災地」という言葉一つで表現される東北地方太平洋沿岸部であるが…
オレは盛岡から遠野を経て釜石に入った。
はじめ、テレビなどでよく流れる風景がでてこなかったため、「あれっ?」と思っていた。
しかし、海に近付き、トンネルをくぐったあたりから、様相が一変した。
鵜住居地区にはいった時には釜石の内陸部との違いに愕然とした。
単純に標高差が明暗を分けたと言ってもいい。
宮古市や気仙沼市、石巻市も同様である。
これらの自治体は人口も多く街も大きいので全壊にならなくて済んだ。
いろいろな問題はあるだろうが、自治体としての形は保つことができた。
大槌町や南三陸町はそうはいかなかった。
全壊に近い被害だった。
特にオレは大槌町に大きなショックを受けた。
釜石市の鵜住居地区でもショックを受けたが、それ以前に通ってきた繁華街は、ぱっと見た限りでは津波の被害が見えなかったこともあって、釜石市の一部が被害を受けた(とは言っても悲惨な状況だったことは大槌町も鵜住居地区も同じである)という印象だった。
しかし大槌町は町全部が被害を受けた、まさに「壊滅」状態だったのだということがよくわかった。
宮古市や気仙沼市、石巻市はどちらかというと釜石市のパターン、南三陸町は大槌町のパターンだったと感じた。
マスコミは「被災地の○○(←自治体名)」と一言で言ってしまうため、すべての「被災地」が大槌町のように「全壊」状態のように感じてしまっていた。
このような情報の誤解があったことを再確認したとき、釜石市パターンの「被災地」の瓦礫の撤去状況と、大槌町パターンの「被災地」の瓦礫の撤去状況に差があることが気になった。
釜石市パターンのほうではある程度瓦礫が取り除かれ津波の被害を受けた地区にも営業しているお店などが見えたり、人の流れが見えたのに対し、大槌町パターンの「被災地」では、釜石市パターンのような動きが見えないのである。処理できていない瓦礫や道路の劣悪さは釜石市パターンにはあまり目立たなかった(なかったというわけではない)。
語弊を恐れずに言えば、釜石市パターンの「被災地」息を吹き返し始めているのに対し、大槌町パターンの「被災地」は未だに「死んだまま」なのである。
もちろん、釜石市パターンの「被災地」にもまだまだひどい状況のままの地区がたくさん残っていることも確かだし、大槌町パターンの「被災地」の方々も他の「被災地」同様に生き返ろうと必死に踏ん張っているのも確かだが、オレがそれぞれの「被災地」に対して差を感じたことも事実だ。
この差を生んだのには様々な要因がある。
例えば、津波が来て大槌町の意思決定にかかわる人々が軒並み犠牲になられたこともその一つだろう。
だが、津波の被害にあって1年もたつのにこのように「被災地」に差がでてきてしまう、というのは日本国が国としての責任を果たしてこなかった一つの証だと思う。
それぞれの「被災地」に差ができたなら、その差を上方にあわせて埋めるべく調整していくのが国の役割ではないのか。その調整を全くせずに一年を過ごした、ということだろう。
「被災地」の方々やボランティアの方々の力だけではこの差は埋まらない。国の働きがなんだかんだ言って必要なのである。
ところが、小泉首相以来の日本の政治は「グローバル化」を言い訳にした「新自由主義」を標榜してきた。アメリカでも「カトリーナ」の時、富める者と貧しい者で差が出たと聞いているが、今の「被災地」では自治体レベルでそれが起こっているのだ。
国の責任を全うせず、強きを扶け弱きを挫くのがまさに「新自由主義」なのだ、と「被災地」間にできた差をみて実感した。
蛇足だが、自民党も民主党も、橋下大阪市長サマも、「新自由主義」を手放そうとしない。なぜならば彼ら自身も「強き」者だからである。
彼らがどんな言葉を使って被災した方々の気を引こうとしても、「新自由主義」を捨てない限りは、彼らが「被災者」の味方であることはできない。
(続く)
  


Posted by はぬる at 22:29Comments(0)雑感・いろいろ