2013年01月28日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 6

山田氏の文章中の一~三の問題点と北方氏が見出した解決点についても、意見はあるもののここでは述べない。しかし山田氏も魯智深をただの「酒乱の乱暴者」としか捉えられていないようだ。「稚気あふれる」とも言及しているが、水滸伝世界(というか、陽明学。水滸伝の成立に多大な影響を及ぼしたのは李卓吾という人物で、彼は陽明学左派の思想家。「童心説」を唱えた。また中国社会もこの考え方の影響を受けている)において、この「稚気あふれる」というのがいかに大切なことか。山田氏も原典の水滸伝をきちんと読んでいるとは言い難いようだ。

山田氏は結びで次のように〆ている。

  この北方「水滸伝」全巻が、しかるべき後、かつての金聖嘆版七十回本が「水滸伝」定本とされたように北方「水滸伝」が定本になる。

これは傲慢以外のなにものでもない。
例えば次のようなことを想像していただきたい。
日本で民衆によって大切に育て上げられてきた物語…なんでも良いがここでは例として桃太郎をあげる。これに目を付けた中国人の人気作家蕭譲(仮名)が「豊穣な近現代小説の歴史を踏まえて」解体改変を加えたとする。それは、こうなる。

  ある日、国境の村の近くの桃の木の下に、首筋に大きなあざのある男の子が打ち捨てられていた。子のない中年夫婦がこの子を拾い、名前は桃の木の下から拾ってきたことから桃太郎と名付けた。二人はこの子を育てて、鬼退治をさせようとしたため、厳しい修行を幼い時から積ませた。十数年後、子は立派に育ち、念願の鬼退治に出かけることになった。桃太郎は屈強な男を100人余り従えて、鬼がいるという地目指して出発をした。
国境を超えしばらく行くと、犬を崇拝する部族がすむ村にたどりついた。桃太郎の村では単に鬼と呼ばれて恐れられていたが、鬼とは「エミシ」のことであるという。犬信仰部族はエミシとの間に、新羅・渤海貿易をめぐって対立があったために桃太郎と利害が一致してエミシ討伐に参加することとなった。
また兵を進めていくと猿を崇拝する部族がすむ村についた。彼らはエミシとヤマトの間で商売をする部族でありエミシ・ヤマト間の戦争を踏み台に有利な立場に立とうという目論見から猿信仰部族も桃太郎についた。桃太郎はこのとき、自分が育った村がヤマトの重要な一地方であることを知り、自身がヤマトの征夷の先鋒であることに誇りを感じた。
さらに兵を進めると雉を信仰する部族の村に出くわした。彼ら自身は、エミシの一員であった。桃太郎はさっそく戦闘の準備を始め、雉信仰部族の村々を略奪していった。ところが雉信仰部族の中に、桃太郎の出生を知るものがいた。それは桃太郎の首筋のあざからわかったことだった。
桃太郎が育った村は、もともとエミシの村だった。ある日、ヤマトの軍勢が押し寄せて村を散々に打ち壊し、略奪して奪い取ってしまった。丁度それは、桃太郎が雉部族との戦いでやったようなことだった。桃太郎は逃げ惑う村人のある夫婦の子どもであった。母はこのとき、桃の木の下でヤマトの兵に殺され、父はエミシのクニの奥のほうに逃げて行方不明だという。そしてこの村を襲ったヤマトの大将が、桃太郎を育てた中年夫婦だった。
桃太郎を見知った人は、桃太郎の母が殺されるとき、近くにいたが運よくヤマトに見つからず逃げのびた。のち、危険を冒して桃太郎の村の近くの桃の木のそばに小さな墓を建てた。桃太郎ははじめその話を信じなかったが、彼の言うことがいちいち桃太郎の記憶と符合し、また、桃の木の下で見つけた、育ての夫婦には内緒にしてもっておいた物とこの人物が持っていた物が符合したことで、桃太郎もエミシの…鬼の一員であることが、はっきりした。
悩みの中で、雉信仰部族の長の勧めと案内で、桃太郎、犬部族の長、猿部族の長はエミシ全体を束ねる長のところに行くことになる。
エミシの長はヤマトの人間はヤマト以外の人間をエミシと呼び、桃太郎もその出生が知られればエミシと蔑視を受けるだろうこと、犬部族にしても猿部族にしてもヤマトからみればエミシにほかならず、エミシがまとまらなければいつかはヤマトに滅ぼされるだろうことを説いた。
桃太郎は悩みの末にエミシとして生きることを選び、ヤマトと戦うことで父を探そうと決意し、犬、猿両部族も桃太郎とともに、戦うことを選んだ。桃太郎は雉部族の村に戻り雉部族との和解をし、故郷から連れてきた100余人で、エミシに降伏しないものを殺して未練を断ち切ったのち、自分の故郷に兵を向けるのだった。

この内容の小説が中国で人気がでて、出版社から紹介文が出たとする。
そしてその紹介文に「日本版『桃太郎』にかわり、蕭譲版『桃太郎』が桃太郎として地位を確固のものにするだろう」なんて書いてあったらどうだろう。
今の日本社会の雰囲気からして、「中国、今度は桃太郎をパクる」なんて反応が出るだろうことは想像に難くない。

(続く)
  


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2013年01月27日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 5

さらに次のような傲慢ささえ感じる紹介文もあった。
 
  北方「水滸」、新しい古典へのあくなき挑戦 山田祐樹
(前略)
 その百八人の英雄、豪傑たちが梁山泊に集うまでの七十回までは、まことに胸が躍る痛快譚だが、官の手先となって百八人のうち八十人近くが犬死していく後半はまことにつまらない、そう考えた清代の金聖嘆は、後半を捨てて、百八人が集うまでの七十回をもって定本「水滸伝」と決めてしまった。以後、中国では「水滸伝」といえば金聖嘆版七十回本と信じられ、それは毛沢東の時代まで革命の書として愛読されてきた。
 北方「水滸伝」は、かつて金聖嘆が百二十回本「水滸伝」に異議を唱えたように、既成の「水滸伝」に異を唱えた結果である。しかし、金聖嘆の異は、当時の明末の時代背景を踏まえ、印象批評による後半の削除にとどまったようだが、北方謙三の異は、豊穣な近現代小説の歴史を踏まえて、中国版「水滸伝」の物語の構造に立ち入った異議である。それは、強引に要約をすれば、以下の三点に集約される。
一 断片的な講談や演劇を長編化したせいで、作中の時間の流れが恣意的で、精読するにいつ何が起こっているのか、誰が何をしているのかが、きわめてあいまいなこと。
二 人物の個性が数人を除いてはあいまいで、単純で粗暴な乱暴者とか、忠義な武将とか、人格者の地方豪族とかが複数登場して、その描きわけができていないために、物語全体を通読すると、著しく起伏に欠けること。
三 あくまで百八人の英雄が偶発的に梁山泊に集結したとされているが、そのために筋立ては偶然につぐ偶然の集積になってしまったこと。
 北方謙三はこの三点をクリアすれば、言葉の真の意味での新しい「水滸伝」を構築できると確信して、その難関に挑戦した。
一については膨大な時制表を作成し、不要なエピソードや意味のない反復に大鉈(おおなた)をふるい、また挿話を追加して、物語の中の時間の流れの一本化をはかっている。そのために、きわめて読みやすくなり、山場が無理なく連続していく結果となっている。
二については北方「三国志」で呂布(りょふ)の性格を変えたようなことを完全に徹底して行った。たとえば、人気登場人物のひとり、花和尚魯智深(かおしょうろちしん)。中国版では、稚気あふれているが、酒乱の乱暴者。人助けのために殺人を犯し、出家して放浪の後に梁山泊に流れつく。北方版では、総帥宋江と少年の時からのつきあいで、宋江の語る世直しの檄(げき)を筆写して「替天行道(たいてんぎょうどう)」という冊子にし、それを持って全国を行脚する。全能の伝道師、という役どころである。
 三については、偶然を必然に変更している。つまり革命をめざすふたりの首領、宋江と晁蓋(ちょうがい)が綿密な戦略のもとに、経済力を闇塩によって入手し、しかるべき人材をてなずけ、来るべき戦闘の本拠として梁山泊を入手した。梁山泊にただ迷いこんで来た者はひとりもいない。
  全十九巻の北方「水滸伝」はかくのごとき作品である。
  この北方「水滸伝」全巻が、しかるべき後、かつての金聖嘆版七十回本が「水滸伝」定本とされたように北方「水滸伝」が定本になる。
  (Yahoo! JAPANの電子書籍アプリ - Yahoo! JAPANより 集英社e文庫 北方謙三水滸伝
http://event.yahoo.co.jp/sphone01/iphoneapp/suikoden1.html )

山田祐樹という人はどうやら集英社の編集者で北方氏の担当らしい。
Sonyのサイトの紹介文にもあったが山田氏も原典の水滸伝を「中国版」と呼ぶ。これは相当に傲慢なことだが、わかっているのだろうか。1の項目でも書いたが、水滸伝は誰か一人が勝手に書いて出来あがった物語ではなく、多くの中国民衆が長い時間をかけて自分たちの想いを紡ぐように作り出していったものである。だからこそ水滸伝や西遊記には「最終成立」という概念があるのだ。一個人の創作小説にすぎない『水滸伝』を“水滸伝”として原典と同列に扱う「北方版」、「中国版」という相対化した言い方は、歴史の中につづられてきた中国民衆の連綿とした想いを無視し、水滸伝の持つ歴史的・文学的な位置づけ、意義を破壊してしまう。
山田氏は「金聖嘆は、後半を捨てて、百八人が集うまでの七十回をもって定本「水滸伝」と決めてしまった。」という。定本としたのは金聖歎の独断であり、確かに中国では70回本が主流の時代が長かった。
しかし、70回本の定本化が無条件によしとされていたわけではない。
100回本、120回本が復権してきたことも金聖歎の70回本に対する問題意識のあらわれである。そのため、金聖歎自身もずっと批判の対象になっている。
さらに、金聖歎が切り捨てた71回以降も知られていないわけではなかったようである。(http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/6575/1/cc007004.pdf)
また、70回本が主流の時代が長かったとはいえど、金聖歎の切り捨て(これを腰斬という)以後、100回本、120回本がすぐに姿を消したわけではない。中国で70回本以外の版本が姿を消したのは高々100年前後で、中華民国の初期には胡適によって日本に他版本が存在することが発見され、同時に金聖歎に対する批判も加えられているのである。山田氏の書き方では事実と異なる印象を受けてしまう。
付け加えれば、70回本の改変に人気が出て他の版本を駆逐するにいたったのは、スリム化・「読む」物語としての昇華(水滸伝は本来、「聴く」物語)という要因もあったに違いないが、出版業界や商品の都合の要因も大きかった(駒田信二氏の解説による)。
金聖歎の改変とそれに伴う70回本の定本化は、無批判に受け入れられるものではないのである。
さらにそのような問題の多い金聖歎の改変と、北方氏の『水滸伝』の解体改変とは根本的に問題が違うのである。単純に考えてもわかるように、北方氏の『水滸伝』は水滸伝として学術的に論じることはできないが、金聖歎の70回本は水滸伝として学術的に論じることは可能なのである。
山田氏の70回本に対する言及は、北方『水滸伝』を俎上に乗せるためである。しかし、無批判に過ぎるばかりか、根本的に問題が違う『水滸伝』と70回本を同列に扱ってしまっている。
そして
しかし、金聖嘆の異は、当時の明末の時代背景を踏まえ、印象批評による後半の削除にとどまったようだが、北方謙三の異は、豊穣な近現代小説の歴史を踏まえて、中国版「水滸伝」の物語の構造に立ち入った異議である。
と、続ける。
ここには何点かの(有理、無理の意味での)無理がある。
まず、金聖歎が「印象批評による後半の削除にとどまった」とあるが、水滸伝というタイトルを冠するなら当たり前の話である。(ちなみに山田氏はここでも認識が間違っている。金聖歎がしたのは、「印象批評による後半の削除」ではなく、「印象批評」と「後半の削除」である。「後半の削除」は「印象批評」によるかもしれないが、「印象批評」は全般にわたってやっている)
最低限度の枠組みは壊していないから、水滸伝の看板が掲げられるのである。その枠組みを壊して水滸伝を名乗るなど、おこがましいにも程がある。
二点目。「豊穣な近現代小説の歴史を踏まえて」とあるが、水滸伝は明代の庶民の間で生まれた物語である。現代日本人のために生まれたわけではない。そして、問題点はあるだろうが、その当時においては、非常に優れた物語だったのである。それを「豊穣な近現代小説の歴史」などを持ち出して異議を唱えるというのは、非常に不遜な態度であり、ある意味滑稽ですらある。そこには近現代小説の礎となってきた原典水滸伝をはじめ、多くの前近代小説に対する敬意の念は感じられない。また「豊饒な」という修飾語からは、無批判に前近代の文物をより劣ったもの、近現代の文物を優れたのものとする、無批判な近現代至上主義が垣間見えていやらしい。
(続く)
  


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2013年01月23日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 4

3.北方『水滸伝』を水滸伝と受け取る読者層の問題
検索エンジンで「水滸伝 書評」で検索すると、北方氏の『水滸伝』について書いたブログが圧倒的に多い。そしてその中のいくつかを除くと、「水滸伝は面白い」「原典とはだいぶ違う」「原典は読んでない」といった言葉が並ぶ。小説としては非常に面白い作品であるのは確かなようだ。前述したがここでオレは小説としての『水滸伝』を批判しているわけではない。ただ、原典を解体再構築して、キャラクターの造形まで変えているのに水滸伝というタイトルやキャラクターを使っていることに対して批判を加えている。
そして、受け手側はそのことにどれだけ批判的だろうか。
北方氏は楽天ブックスの著者インタビューで「キューバ革命」を描きたかったと言っている。(http://books.rakuten.co.jp/event/book/interview/kitakata_k/)
であれば、キューバ革命そのものでやればいいのであって、水滸伝を利用する必要はない。こう言った批判は受け手の側からは全く聞こえない。
無邪気に北方氏の『水滸伝』を水滸伝として紹介する書評を読んでいると、本当に水滸伝が好きなのだろうかと、疑問すら湧いてくる。
例えば、SONY READER STORのサイト(http://ebookstore.sony.jp/stc/special/news/suikoden/)には108人のうちの一人、花和尚魯智深に対して次のようなことが書いてある。

  たとえば、人気登場人物のひとり、花和尚魯智深は中国版では酒乱の乱暴者だが、北方版では、少年の時からのつきあいの総帥宋江の語る世直しの檄(げき)を筆写した冊子「替天行道」を持って全国を行脚する、全能の伝道師、という役どころに改変された。

ここでは原典において酒乱の乱暴者にすぎない魯智深を北方氏は重要な役どころに改変したという風に読める。しかしオレには、この紹介文を書いた者が本当に原典を読んで理解した上で、北方氏の改変を評価しているのか相当に疑わしい。
原典の魯智深はただ「酒乱の乱暴者」なわけではない。彼は弱きを扶け強きを挫き、酒がめっぽう好きで豪傑である、という梁山泊の理想を典型的に具現化したような性格で、最後は梁山泊軍にとって大きな役割を果たす。そして最終的には悟りをひらくという役どころなのであり、当時の中国人の宗教観まで内包した重要な人物なのである。
だからこそ、徹底的に梁山泊を否定し、梁山泊の豪傑108人が全滅するまでを描いた、前述の兪萬春による「結水滸伝(蕩寇志)」でも、魯智深は敵に殺されるのではなく少し特別な死に方をする。
原典の魯智深がただの「酒乱の乱暴者」としてしか捉えられない者が、北方氏の『水滸伝』の紹介文を書くことが不思議でならない。
(続く)
  


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2013年01月20日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 3

2.北方氏の持つ矛盾性
北方氏は「演義という形で書かれた『水滸伝』を、現代日本語に訳することに、私は何の意味も見出せなかった。」という。中国文学者でもない一介の小説家である北方氏に原典の日本語訳など期待しはしない。また、日本語訳になっている原典をもとに、北方氏の解釈の小説水滸伝を書くことに何ら問題はない。しかし、水滸伝のタイトルを冠しキャラクターも使うのなら、逸脱してはならない部分は確実にある。あるいは原典を解体して新たに構築するなら、水滸伝のタイトルを冠したり、キャラクターを使ったりするのは避けるべきだった。「『水滸伝』を、現代日本語に訳すること」に意味を見いだせないのならなおさらだ。
「自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。」というが、原典を逸脱して水滸伝を壊すことが「作家という創造者の矜持」なのか。原典の枠組みの中で、意味の見いだせない水滸伝の日本語訳に意味を持たせるのがプロの作家の仕事であり、それこそが「作家という創造者の矜持」ではないのか。あるいは原典を大きく逸脱した自分の水滸伝を世に出そうとするなら、水滸伝のタイトルを冠せず、水滸伝のキャラクターも使わないで勝負するのが「作家という創造者の矜持」ではないのか。
つまるところ、「自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。」等とかっこいいことを言ってはいるが、自身の『水滸伝』を出す際、現代日本語訳にすることに意味を見いだせない水滸伝に頼っているのである。
蛇足ではあるがオレは趣味でマンガを描いている。20年ほど前、水滸伝、ハイスクール奇面組、ドラクエ3及び4にはまっていたオレは自分の『水滸伝』を描き上げた。今は1300ページ分の分量になる第3稿目が終わり、第4稿目を描いている。人に見せるものではないので好き勝手に描いているのだが、タイトルは「夏天故事」とし、108人いる主人公たちも水滸伝のキャラクターをそのまま使ってはいない。モデルにした登場人物は多いが、名前まで一致させることはなかった。水滸伝というタイトルで、キャラクターの名前まで一致させるという発想がなかったからだ。しかし水滸伝好きが読めばにやりとする部分が結構ある。
北方氏の「私の中で『水滸伝』は変質し、別の創造物としての再生の時を待っていたのだ」という気持ちはよくわかる。オレが「夏天故事」を描き始めたのも、今思えば同じ気持ちだったからだ。だが、オレの中で水滸伝が「変質」し、「別の創造物」になった「夏天故事」は、どこまでいっても「夏天故事」であって水滸伝ではないことを知っていたため『水滸伝』のタイトルもキャラクターも別のものとしたのである。
(続く)
  


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2013年01月15日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 2

ここで、オレが感じている問題意識を整理してみる。

1.水滸伝の捉え方に関する問題
水滸伝は中国の名もない民衆が織り上げていった物語で、個々のいろいろな物語をつなぎ合わせたものだと言われている。そしてそれを施耐庵なり羅貫中が編集したものであることがわかっている。
つまり水滸伝は中国の民衆が、その時々のいろいろな想いを託した物語なのだ。中国民衆の想いを、施耐庵(あるいは羅貫中)が文章として素晴らしい物に仕上げたものと捉える事が出来る。
ところが、清の時代になって108人が梁山泊に集合する72回以降を、金聖歎という人物がバッサリ切って捨てるということをやらかす。水滸伝は大別して、成立順に100回本、120回本(駒田信二氏の訳はこれになる)、70回本とあるが、この70回本が金聖歎の手によるものである。
72回以降梁山泊の面々は招安を受け(盗賊が罪を許され朝廷に帰順すること)、宋朝のために遼国と戦争をしたり、地方の盗賊を討伐する、という内容になるが、彼にとってこの内容は大いに不満だったようである。金聖歎はどちらかというとインテリの部類に入る人物で、盗賊はどこまでいっても盗賊だろうという思いがあったようである。清の兪萬春という人物は、金聖歎のこの批判をさらに推し進めて結水滸伝(蕩寇志)を書いた。その序文には次のようにある。

(引用はじめ)

   この一冊の本は「蕩寇志」とも言う。看官、なぜこの本が作られたのか。施耐庵先生の「水滸伝」はなぜか宋江を忠義とはしなかった。皆さんはただ彼の筆意、宋江の奸悪さを描写しないものがないことを見ることができる。それは彼をして忠義者といい、まさに口では忠義をなすが、心の中は強盗であって、ますます奸悪さを形づくるのである。聖嘆(金聖嘆)先生の批判は明白である。忠はどこにあるのか、義は全体どこにあるのか、さらに言えば、忠義であるなら、強盗などしないし、強盗であれば忠義を考えることもない。そこで羅貫中と言うものは「後水滸(120回本の72回以降を指す)」の一部を持ち出し、驚いたことに、宋江こそ真の忠で真の義のものであるという。このことによって、後の世の人は強盗をはたらき、宋江のように、心の中は強盗、口では忠義を言う。殺人を犯しては忠義、家屋を打ち壊しては忠義、官をうち捕をこばみ、城を攻め村を陥れるものすら忠義と叫ぶものを見ずにはいられない。このようなことをなんと言うか。これこそまさに、邪を言い淫を述べ 、悪人の考え をし、災いを無限に残す である。もしこのような本を世に留めおくなら、何の役に立つのか。暇つぶしに読むようなものだから気にする必要はないなどと言うなかれ 、心得なければならないのは暇つぶしに読むようなものであればあるほど、その伝わり方は早く、茶店居酒屋、明かりの前や月の下で、人々は喜んで話すし、よく聞くのである。既に世の中に出版されているこのような本をいまさら禁止はできない。宋江は別に招安を受けて方臘を平らげたわけではなく 、ただ張叔夜によって捕らえられるだけの話である。彼がよく嘘を言い、本当のことを隠そうとするならば、私もまた事実を明らかにし、彼の嘘を破り、天下の後世に盗賊と忠義の区別をはっきりさせ、ごっちゃにすることは少しも許さない 。まして夢の中で魂に言いつけられたからには、灯の下であっても筆が乾くことはさらに難しい 。
  皆さん、この本は施耐庵の「前水滸伝」に続いており、「後水滸 」とは関わりがない。本意は既に明らかである。では正伝を見ていただこう。

(引用終わり)

このような考え方で金聖歎は72回以降を切ったわけだが、これはそれまで築いてきた中国民衆の想いを、インテリが上からの目線で切って捨ててしまった行為ともいえる。
だからオレは金聖歎を評価しない。確かに後半戦争が続くことになり、飽きる人間には72回以降を切って捨てたことは、スリム化につながってよかったかもしれない。けれどもスリム化することによって、民衆の想いを捨てることを評価していいものか。ごく何十年か前まで中国では70回本が主流だったようだが、金聖歎に対する批判は昔から根強いようだ。
さて、前置きが長くなったが北方氏の『水滸伝』である。
前述の引用で本人が言っているように北方氏の『水滸伝』は、北方氏の内部で変質した『水滸伝』を文章にしたものであって、水滸伝とは「別の創造物」である。つまり中国民衆の長い歴史の中で積み上げてきた様々な想いを、金聖歎が上の立場から変質させたように、あるいはそれ以上に北方氏は彼らの想いを無視して自分の『水滸伝』に変質させてしまった。金聖歎の擁護をすれば彼は明末清初に生きた人間で実際に盗賊に苦しめられた人物でもあり、そういう立場からはどうしても盗賊を忠義者の集団とすることはできなかったのである。そういう意味では、70回本も歴史の中に生きた中国民衆の想いの積み重ねと取ることができる。しかし北方氏は違う。自由にものが書ける社会において中国民衆の想いを解体してしまった。多くの人々の想いの積み重ねを、一個人の想いに塗り替えてしまったのである。そして日本では一個人のものでしかない『水滸伝』が水滸伝として受け入れられてしまっている。
(続く)
  


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2013年01月14日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文

0.はじめに

以前にも書いたがオレは三国志演義より水滸伝のほうが好きだ。
三国志演義は井波律子氏訳を読んだ。確かに魅力的であったが、日本の過剰な人気にはやはり疑問符がつく。(もっともオレは日本での『三国志』人気は吉川英治氏の小説によるものと考えているので、本当に日本で三国志演義に人気があるとは考えていない)
オレと水滸伝の付き合いはもう20年以上になる。宮下あきら氏のマンガ『魁!男塾』でその存在を知り、松枝茂夫氏の編訳(岩波少年文庫)から入り、駒田信二氏の訳(講談社文庫、最近平凡社版を手に入れた)を何度も読んでいる。中国に住んでいた時は原文を手に入れてきた(崑崙出版)外、結水滸伝(蕩寇志)も手に入れた。また鳥居久靖氏の水滸後伝(平凡社東洋文庫)ももちろん読破済みである。
それはさておき、最近北方謙三氏による『水滸伝』が大変人気を博しているようである。小説としてはかなり面白いのであろう。
しかしである。小説としての面白さと、水滸伝の持つ魅力はまた別物である。
北方氏は自身のホームページでこう語る。

 「演義という形で書かれた『水滸伝』を、現代日本語に訳することに、私は何の意味も見出せなかった。私の中で『水滸伝』は変質し、別の創造物としての再生の時を待っていたのだ、という気がする。私は、自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。」
(http://www.shueisha.co.jp/suiko-yourei/old/  北方謙三 水滸伝|楊令伝のサイト メッセージより)

数年前NHKが水滸伝(『水滸伝』?)の特集を組んだ。解説に北方謙三氏を迎えていた。途中から見たのでどちらを特集していたのかわからなかったが、今考えれば、どちらかというと北方氏の『水滸伝』の要素が多かった記憶がある。その時は、北方氏の『水滸伝』と水滸伝の相違など知らなかったが、なんだか自分の知っている水滸伝と食い違う部分があるな、とは感じていた。
それで、オレは北方氏の『水滸伝』を一度読んでみようと思った。水滸伝好きとしては当然である。けれど読めなかった。手には取ったが、引首(はしがき)はおろか、「遇洪而開」すらないのである。いきなり史進(あやふや。それだけショックが強かった)らしき人物がでていて面喰った。
「遇洪而開」は水滸伝を語る上で重要なキーワード…というかそれがなければ108人の存在はないはずであるが、序盤に見当たらない。これは水滸伝ではないと判断してそっと棚に戻した。
その後ウィキペディアであらすじを調べてびっくりした。20年近く慣れ親しんだ水滸伝とは全く別物だったからだ。
しかし、日本では北方氏の『水滸伝』が広く受け入れられ、原典を踏襲した翻訳や小説が駆逐されている状況がある。そういうわけで、北方氏の『水滸伝』に対して、水滸伝好きのオレとしては問題意識を持たざるを得なかった。
本考察は北方氏の『水滸伝』そのものを批判するものではない。オレは読んでいない(読めない!!)のでその資格はない。北方氏の水滸伝に対する姿勢や、北方氏『水滸伝』を水滸伝として評価する人たちに対する批判である。これは著者本人のコメントや愛読者層の書評を読むことで批判的に考察できる。したがって、北方『水滸伝』を水滸伝としてではなく小説として評価するものは(水滸伝としては切り捨てている愛読者もいる)批判の対象外になる。
(続く)
  


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2013年01月14日

暴力はどんな大義名分をつけても暴力

1月13日(日)のテレビ朝日『サンデースクランブル』に戸塚ヨットスクールの戸塚校長が体罰肯定の立場で出ていた。
(番組としては一応体罰に反対するスタンスで、戸塚校長は批判を受けていたが)
体罰を肯定する人に問いたい。
自分が誰かに殴られたとき、「これは教育です」「指導です」と言われたら納得するのか。
なぜ教師-生徒の間ではこれが成り立つのか。
合理的な説明ができるものならしてみてほしい。
何やかやと理由をつけても、体罰は人権を侵害する行為そのものであって、それ以外の何物でもないのだ。
しかし、今回の問題に基本的人権の尊重といった側面からの論調が少ないのは、いかにも情けないことである。ここでも日本社会の人権意識の低さを露呈している。

今回の体罰の問題には、もうひとつ、日本の『スポーツ至上主義』が大いに絡んでいるが、その指摘はあまり聞かない。
単純に考えてみてほしい。
プロ野球選手になりたくて一日中野球のことしか考えていない生徒と、マンガ家になりたくて一日中マンガやイラストを描いている生徒がいたとする。
野球少年に対しては、悪くてせいぜい『野球バカ』くらいの評価だろう。多くの場合は「夢に向かって頑張っているな」という良い評価がつくだろう。そうでなくても「爽やかだ」とか、そういうイメージも持たれる場合が多い。
しかし、マンガ少年に対しては、まず『オタク』という言葉が投げかけられることは想像に難くない。そして多くの場合、「夢みたいなこと言っているな」と来るのがオチだ。場合によっては「キモイ」なんていうイメージを持たれることもあるだろう。
二人とも自分の将来に対して一生懸命向かっていることは一緒なのに、スポーツに対しては良く評価されることが多いのに対し、文化系の活動に対しては悪く評価されることが多い。
教育現場において、「中学の時に運動部に入らない男子生徒はダメだ」という先生がいるのも確かだ。
これを『スポーツ至上主義』と言わずしてなんというのか。

部活動はこのような『スポーツ至上主義』の上に成り立っている。
放課後ごと毎日部活動で生徒ばかりか教師をも縛り付けているのは本当におかしな話だ。
いかに学校教育を捻じ曲げているか。放課後(や休日)のいろいろな自主的な活動を部活動で縛り付け、生徒に学校以外の他の社会に接する機会を奪っている。
生徒や教師の余裕を奪い、教科教育の妨げにまでなっているのが部活動である。
その部活動を否定できないのは『スポーツ至上主義』のためだ。

日本社会は、スポーツに対して非常に寛容である。
そしてスポーツ界は非常に権威主義的である。
オレは日本のスポーツ界が戦前の軍国主義の影響をそのまま維持し続けているとみている。だから軍隊式の体罰が大手を振ってまかり通ってきたのだ。
そしてそのスポーツが異常に至上のものとしてあがめたてまつられている。
体罰は、このような問題の一側面としてずっと行われ続けてきたと考えられる。  


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