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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2013年06月21日

日常と非日常のハザマ

今日は日常と非日常のハザマに行ってきた。

…という表現では伝わらないかもしれないけれど、要するに演劇を見てきたのだ。

オレは演劇について、以下のように考えている。素人の考え・一観客の考えなので間違っているかもしれないが。

1 演劇は日常空間の中にある、非日常空間である。
2 テレビドラマや映画、小説、マンガも同様に非日常空間である。
3 基本的に日常は観客席に、非日常は舞台の上・スクリーンの中・テレビ画面の中・文章の間・コマの中に存在する。
4 これらと演劇が決定的に違う点…日常と非日常の境界線がとてもあいまいであること。
5 舞台が必ずしも非日常ではなく、観客席が必ずしも日常ではない。
6 やり方によっては観客席が非日常になり、舞台が日常になる可能性もある。
7 日常と非日常が交じり合う空間がまさに演劇であり、それは他の非日常を演出する創作活動にはないものである。

…やっぱり演劇って不思議で面白い。
まぁ、いろんなスタイルがある。
日常・非日常の枠が厳格に定められているような伝統的な舞台やら、金がやたらかかっているような、また有名な芸能人で話題を集めているようなものは、オレはあんまり好かない。登場人物がやたら多いものも好かない。
たぶん上記のオレの演劇観にはそぐわないからだと思う。

それよりは、(演劇のジャンル分けってよくわからないけど)小劇場演劇が好きだ。
参考:ウィキペデア「小劇場」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8A%87%E5%A0%B4%E6%BC%94%E5%8A%87

こういう劇団のほうが上記のオレの演劇観に近い演出をしたり脚本を書いたりするようだ。鴻上尚治氏や成井豊氏の脚本は何度読んだか知れない。また、今はもうない仙台の未来樹シアターも、不思議できれいで面白かった。(もう一度『みどりの想い』を見たい。20年近く前に1度見ただけなのに忘れられない)

ただ…

演劇が終わり、書店に行った。しかし、演劇に関する本は一冊もなかった。市内で結構おおきめの書店であるにもかかわらず。
これは本当に残念だった。書店に本がないというのは、情報源がないということだ。
同じ演劇を見ていたらしい高校生も、同じ書店で演劇に関する本を探していたが見つからなかったようだ。
理論書どころか、脚本一冊置いていない。
今日だけでなく、山形県内の大きな本屋は結構回ってみているのだが、非常に限られた数しか置いていない。
オレが高校生だったころはそれでも置いていた。
東京の紀伊国屋書店ほどではなくとも、選択に困るくらいのある程度の数はあったと記憶している。
しかし、いまや山形の高校生が演劇に関心を向けるための情報源は、完全に絶たれているといってよい。
資本の論理にたてば、売れないものが置いていないのは当然のこと、仕方のないことだ。
けれど、この現象を文化水準の問題と見たとき、当然で仕方のないことと割り切れない。
この選択肢のなさは、結局山形の文化水準が非常に低下していることの表れだろう。

このことに関連して、山形は非常にスポーツに力を入れている県である。
たとえばドリームキッズプロジェクト(http://www.y-dreamkids.jp/)なるものがある。これは世界レベルでのスポーツ大会で活躍できる人材を育成しようというものだ。
また、モンテディオ山形のホームグラウンドを山形駅付近に作ろうという動きもある。
(天童にも大きなスポーツ施設があり、落合にも、その他いろんな場所にいろんなスポーツ施設があるではないか。これ以上どこに必要だというのだ。)
学校の部活動では運動部が主であり、文化部は言い訳程度に存在している場合も多い。もし部活動を減らすとなると、文化部が真っ先に削られる。「男子中学生で運動部に入っていないやつはダメだ」と言い放った中学校の先生もいるほどだ。
子どもたちは、運動部に大きな時間を割かれ、他の文化活動に興味・関心を向ける暇もない。自身の学校の演劇や吹奏楽の公演を見たことのあるものはいったいどの程度になるのだろうか。
ましてや、山形ドキュメンタリー国際映画祭に足を向けようという中・高・大学生はどの程度になるだろうか。

県がスポーツに力を入れる理由は何点か推測できる。
1 結果が早く、わかりやすいこと。投資した分の成果がはっきり出てくる。
2 本質を追求しなくてよい活動であること。スポーツはそれにさえ打ち込めば、ほかの事に目を向けなくてもすんでしまう。野球の強かったある高校では奴隷制度のようなものまであったと聞いているが、野球が上手という一点で許されてしまう。だから、スポーツに力を入れるというのは、ほかの事から目をそらすという効果を得られる。

1についていえば、例えばドリームキッズの取り組みが成功(?)して、オリンピックでメダルを取った選手が山形から出たとしよう。
はっきり言えば「だから何?」である。
松井選手を生んだ石川県が彼の活躍後、変わったことがあっただろうか。加藤条治がメダルを取っているが、世界の多くの人には加藤条治と山形は結びついていない。

ドリームキッズのホームページには
………………………………
 日本のスポーツ界を牽引し、世界レベルの大会で活躍出来る選手を目指すという子どもたちの夢の実現に向け、リーダーとしての資質を高め、かつ、スポーツ分野のみならず、将来の山形県における牽引役となり、やまがたの発展に資するスポーツ選手を育成する。
また、故郷を大切に思う精神や目標に向かって、力強く進もうとする自立心旺盛な子どもを育成し、夢や希望を持てる新しい“やまがた”を目指す。
………………………………
とある。
スポーツに打ち込むあまり、ほかの事に目を向ける余裕もない子どもたちが、どのようにして「リーダーとしての資質を高め」るのだろうか。”山形”について哲学することがない・時間がない子どもたちが本当に「故郷を大切に思う精神」を養うことができるのか、疑問である。
また、そもそもスポーツの大きな舞台に立つことは「夢」や「希望」なのか。「目標」ではあるだろうが、「夢」や「希望」に対しての大人の側からの哲学がない。そのくせ、あまりにも安易に「夢」や「希望」を子どもたちに押し付けすぎていないだろうか。

2について言えば、1にかかわることであるが、言い換えればスポーツは哲学をせずにすんでしまう、ということである。しかし文化活動は違う。多くのものに興味・関心を持たなければいい創作はできない。そして多くのものに興味・関心を持つことは、世の中の本質に迫る活動につながる。

山形県のみならず、日本全体が非常にスポーツに大きな比重を置いていると感じる。
このような雰囲気で、あるスポーツにおいて「日本(山形、身内)」が勝った・負けただけにこだわっている・すがっているような状況下での「発展」は砂上の楼閣、蜃気楼の中の発展としか思えない。

文化水準の低下がスポーツ活動から哲学を奪っていったのか、スポーツ活動が盛んになって、文化活動に割く時間が減り、結果文化水準が下がったのか…いずれにしても望ましい状態とは言いがたい。

(追記する可能性あり)  


Posted by はぬる at 23:13Comments(0)雑感・いろいろ