"がんばろう日本""がんばろう東北"の呼びかけがウソな理由

はぬる

2011年04月13日 14:27

3月11日の地震以降、いたるところで"がんばろう日本""がんばろう東北"という呼びかけが聞かれるようになった。
オレはこの呼びかけがウソくさくて仕方なかった。

"がんばろう東北"というクセに東北には無関心であること。

東北はすごく広く、歴史的にも文化的にも言語的にもひとくくりにできない。
その広さは、6万3983平方キロメートル(『東北-つくられた異境』 河西英通 2001年 中央公論社 )で、中国・四国地方に福岡、佐賀、長崎をあわせた6万1962平方キロメートルよりも広い。
日本の国土面積38万平方キロメートルの約17%を占めるのだ。
そしてその広大な土地で様々な人々が、ヤマトの政権と微妙な距離を保ちつつ独自の文化を育んでいった。

東北の中で県単位、市町村単位でどれだけ互いにライバル視しているか。
ずんだは仙台が全国的に有名になってしまったけれども、そのことを山形人は苦々しく思っている。
山形内陸地方の芋煮は醤油味だが、同県内の庄内地方(+宮城)では味噌味で、互いに譲らない。

けれど、東北以外の人々は、東北をひとくくりにする。
結局東北に無関心だからひとくくりにできるのだ。

東北以外の人々にとって、東北の方言は"東北弁"であり"ずーずー弁"だし、
東北の歴史は常に受動的で、京都・東京の政権に従であった、というイメージしかないだろう。
そのようなイメージの中では、東北のどこであっても同じような風景に映るだろう。
また都会の人々は東北の自然に触れて、ある種の憧れを抱くかもしれない。
しかしこの憧れは、東北を近代化の遅れた地域とみなす意識と、表裏一体をなす危険性がある。
田園風景を見て素晴らしいなと感じても、自分では絶対に農業をしようという発想にならないのだ。
ある意味で"日本的なオリエンタリズム"といえるだろうか。

今回福島の原発問題に際して、どれだけの人が東北の歴史に思いをはせただろうか。
なぜ東京の電力を供給する原発が福島にあるのか、そのことを歴史的に考えた見解はあっただろうか。
歴史的に見れば、沖縄の米軍基地同様の構造があるのだが、そのことに言及している"評論家"たちをいまだ見たことがない。

ある番組で毎週某漫画家が歴史をすかして現代を考察する、というコーナーをやっている。
今週は米沢藩の上杉鷹山だった。
上杉鷹山を解説するにあたって、コーナー中ずっとテロップなどで"東北を救った"などと書いてあった。
あのテレビ番組の制作陣は、米沢が東北すべてを代表できると考えているのだろうか。
そう考えているのなら、東北全体に対して失礼だし、
そこまで考えが至らな(知らな)かったとしても、
ようは東北に対して無関心だということがはっきりしている。

本当に"がんばろう東北"という気持ちがあるのなら、
テレビ局などもヤマトに"従"な東北の歴史ではなく、
ヤマトと戦った"アテルイ"や、渤海や金と独自に交易していた東北の人々を焦点に当てたらいいのにと思う。
歴史を主体的に生きてきた東北の人々をもっとクローズアップできないクセに
"がんばろう東北"などといったところで、ウソくささしか感じられない。

そして同じ日本の東北に、これほど斯様に無関心な人々が"がんばろう日本"といったところで
所詮かっこいいこと言いたいだけなんじゃないのと思う。
その"日本"の中にどのような東北象があるのか、東北以外の人々に尋ねてみたいものだ。

まぁ、東京都知事選で東京都民が石原を選択したことで、所詮東京の人々の東北地方観はその程度のものだよくわかったが。

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