2013年09月09日

とうきょう おりんぴっく

(1936ねん かいさい だい11かい かき)べるりんおりんぴっくの さいらいでしょ?
おりんぴっくに かぎらず にほんの こくさいすぽーつたいかいの とらえかたが、
「ニッポン (ヨイ クニ)ツヨイ クニ」
にしか なって いない。
こくいはつようの ための たいかいでしか ない。

おりんぴっくに けいざいこうかなんて きたいする 人は、まず しんじゆうしゅぎにNOをいうべき。
それをしないで けいざいが うわむいて くらしが よくなるかも・・・なんて、すなのうえに たてた おしろ。
おおもとを かえないと だめなのに おりんぴっくで けいざいこうかなんて ほんのいちじてきなもの。 むしろ どんどん わるくなるのに めかくしされて みえなくなるだけ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わーい わーい とうきょうおりんぴっく うれしいな~
「ニッポン (ヨイ クニ)ツヨイ クニ」
っていう ばめんが まぢかで たくさん みられるぞ~
けいざいにも とってもいいんだ!!!










…という人が読みやすいようにひらがなで書いてあげた。
日本社会の思考停止状態は、本当にどうしたらいいものか。 

ついでに、国内でこんだけ元号を使わせるんだ。
招致活動はじめとうきょうおりんぴっくの諸活動でも元号でやるんだよね?
まさか2020東京オリンピックなんて言ってないよね?
へいせい32ねん とうきょうおりんぴっく だよね?  


Posted by はぬる at 20:10Comments(0)日本とは

2011年07月20日

自分を「国」と一体化させる人たち

今回の女子サッカーW杯では、日本チームが優勝した。
これはあくまで彼女たちがすごいのであって「日本」がすごいのではない。
はやぶさが惑星探査からいろいろな障壁を乗り越えて帰ってきた。
このことははやぶさの研究チームがすごいのであって、「日本」がすごいのではない。
しかし、一部の人たちはこれらの成功を「日本がすごいのだ」と意味を変えてしまう。
サンプルとして『シートン俗物記』さんのこの二つのエントリーのコメント欄に注目してほしい。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110716/1310803436#c
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20110719/1311067204

その中でも象徴的なコメントをあげてみる。(基本的に原文ママだが改行だけ手を入れた)
灰汁の強いものを選んだことは断わっておく…

…………………………………………
うむ 2011/07/17 05:57
(前略)
あと、日本代表に対する嫌悪感もなんだかなあ。自国の国をとことんひいきして応援する人々なんて世界中に溢れているわけだし、あえて否定することじゃないよね。
別に自国の代表だからって応援しないのも選択肢だけど、あれだけオリンピックやワールドカップが盛り上がっている事実をもう少し踏まえたほうがいい。

日本は素晴らしい国 2011/07/17 08:02
日本万歳!
頑張れ日本!
日本人に生まれて本当に良かった!
自分はなでしこジャパンを見てて素直にそう思えます。
しかし、ブログ主の考え方って吐き気がするわ。
日本・日本人に対して嫌悪感の塊で、いったいどこの国の人よって感じで・・・
まるで在日OO人の思考だぞ。

namae 2011/07/17 12:41
スポーツに対する興味の入り口は何でもいいんじゃいの?何をそんなにプリプリしてるのかまったく理解できんわ。日本人が世界で活躍する姿を見られるのも単純に嬉しいでしょ。
(後略)

在日消えろ 2011/07/17 15:00
何処の国でも自国の選手が世界1を狙っている競技にはスポーツ嫌いの一般人でも応援をする。日本が特殊とでも言いたいのか、この低脳は。在日のくせに生意気に日本人のふりして日本人を批判しているつもりだろうが見え見えなんだよお前が支那朝鮮系なことは。
……………………………………………

このエントリーに批判的なコメントの多くに共通する点は無条件に「日本=自分」としていることである。
これらの書き込みをした人たちには、「①日本人ならば、日本が勝つと無条件にうれしがるべきなのだろうか」「②日本人ならば無条件に日本チームを応援しなければならないのだろうか」といった疑問はわけのわからないバカみたいなものだと思う。
しかし、はっきりしているのは、「すごいのは日本チームの彼女たちであって、日本国籍を有する人全般ではないし、彼女たちも日本チームだからすごいのではない」ということだ。仮に彼女たちが日本国籍を有していなくても、彼女たちはすごいのだ。それなのに、彼女たちを、「日本の選手」として称賛する。某石原東京都知事閣下は彼女たちに「勝ってくれてありがとう」と言ったようだが、彼女たちはありがとうを言われたくて優勝したわけでも、まして、某石原東京都知事閣下のためにサッカーをしたわけでもない。これなどはまさに「日本」を自分と一体化させているいい例だろう。
彼女たちに縁故も何もない人間にとっては、本来アメリカチームもドイツチームも、日本チームと大きな変わりはないはずである。彼女たちと共通しているのは、ただ一点、日本国籍を有する、ということのみだ。しかし、なぜ同じ国籍を有していることが、前述の①や②の疑問を解決するキーになりえるのかオレにはわからない。

以前、「日本人」が一挙に4人ほどノーベル賞を受賞したことがあったが、そのうちの一人は本当は日本国籍を有しておらず、日本人ではなかった。それなのにマスコミは彼を「日本人」として扱い称賛した。しかし、これは非常におかしなことだ。特に自然科学の分野などは、どの国の誰が称賛されるべき研究をしようが、同じことではないだろうか。仮にアインシュタインが日本人だったら、相対性理論の内容が変わるのだろうか。
しかし、実際には日本人ではない研究者を「日本人」として称賛した。なぜ、受賞した研究が「日本人」でなければならなかったのか、よく考える必要がある。

これらのことに共通することは、「国」と自分を一体化させてしまうということである。
「みんなが一つになって…」と言えば聞こえはいいが、日本人が12000万人いれば12000万とおりの日本像がある。ある人にとってそれは、「自分自身」と全く置き換えが可能なものかもしれないし、ある人にとっては明確に境界線が引かれているものなのかもしれない。「みんなが一つになって…」といったとき、それは自分が抱いている「日本像」以外の日本像を、切り捨ててしまっている危険性があることだけは覚えておいてほしい。

「国」は個人とは一体化しようとしない。だが、ある個人は「国」と一体化しようとする。そして一体化しないものを排除しようとする。戦前の「非国民」のレッテル貼りや今回取り上げたコメントに見える「在日」認定がその例である。けれど、「国」に一体化しようとする個人の動きは、権力者にとって非常に都合がいい。
また、「国」と一体化しようとする思考は、「国」を流動的なものとして捉えられない危険性もはらむ。今現在、「日本」に対しての認識は人それぞれで違うというだけで、すでに「日本」は流動的なのだ。それを無理に一体化させようとすると、その一体化の基準にそぐわない「日本認識」は切り捨てざるを得なくなり、よくて無視、悪ければ攻撃の対象となってしまう。『シートン俗物記』さんのエントリーにあがっている「マイナーなスポーツが注目されない理由」や、今回の女子サッカーのように「普段注目してないクセに大舞台になったとたん俄然騒ぎ出すニワカが増える理由」はこの辺にあるのではないかと思う。

「国」と個人を一体化させようとする傾向は日本に限ったことではない。
けれど日本のそれは非常に悪い傾向があると感じる。
少なくともオレが昔住んでいた国では、一般の30分しかないニュース枠で15分も使ってサッカーの勝負についての報道をしたりはしなかった(スポーツ報道の番組が別に確保されていた)。

ちなみに…
韓国人、中国人、日本人の3カ国のうち、一番愛国心が強い国民はどの国の国民だろうか。

多くの人は韓国人か中国人のどちらかを選ぶだろうか。









しかし、実際は日本人である。
韓国人も中国人も、良い条件でチャンスがあれば、国を出たいと考えている人が多い。国籍を変えることも、日本人ほど抵抗を感じたりしない。
韓国人も中国人も「国」は個人を守らないことをよく知っているからだ。
  


Posted by はぬる at 22:43Comments(0)日本とは

2011年07月20日

無批判でいられることが気持ち悪い

「なでしこ」という言葉が歴史的にどのような役割を担っていたか、無邪気に日の丸を振りかざし、一心不乱に君が代を歌う人たちにはどうだっていいことなんだろう。
その鈍感さ、無関心さは民主国家としての日本-日本国憲法下にある日本社会-には、そぐわない。
どうも、一種の違和感というか、ざらっとしたものを感じざるを得ない。
  


Posted by はぬる at 10:30Comments(0)日本とは

2011年07月16日

アレを表現だというのなら、歌わない表現だってありえるだろう

オマエの表現なんかどうでもいいが、オレの表現は尊重しろ、
というのが透けて見えるようでした。
そもそも、公務員(教員)が君が代を歌わなければならないなんて法的根拠はどこにもないんですが…。
他者に日の丸・君が代を強制する条例を通しておいて
表現の自由を言うのは気恥ずかしくないですか?  

Posted by はぬる at 10:28Comments(0)日本とは

2011年04月19日

民主主義

多数決は民主的な決定方法ではない。
多数決で少数派を切り捨てるのは、形を変えた独裁だ。

意見を述べることは意見を押し付けることではない。
意見を表明したことに対して、意見を押し付けている、というのは
「おまえはしゃべるな」ということを形を変えて言っているに過ぎない。

このことをよくわかっていない主権者が日本社会には多すぎるように思う。  

Posted by はぬる at 15:42Comments(0)日本とは

2011年04月13日

"がんばろう日本""がんばろう東北"の呼びかけがウソな理由

3月11日の地震以降、いたるところで"がんばろう日本""がんばろう東北"という呼びかけが聞かれるようになった。
オレはこの呼びかけがウソくさくて仕方なかった。

"がんばろう東北"というクセに東北には無関心であること。

東北はすごく広く、歴史的にも文化的にも言語的にもひとくくりにできない。
その広さは、6万3983平方キロメートル(『東北-つくられた異境』 河西英通 2001年 中央公論社 )で、中国・四国地方に福岡、佐賀、長崎をあわせた6万1962平方キロメートルよりも広い。
日本の国土面積38万平方キロメートルの約17%を占めるのだ。
そしてその広大な土地で様々な人々が、ヤマトの政権と微妙な距離を保ちつつ独自の文化を育んでいった。

東北の中で県単位、市町村単位でどれだけ互いにライバル視しているか。
ずんだは仙台が全国的に有名になってしまったけれども、そのことを山形人は苦々しく思っている。
山形内陸地方の芋煮は醤油味だが、同県内の庄内地方(+宮城)では味噌味で、互いに譲らない。

けれど、東北以外の人々は、東北をひとくくりにする。
結局東北に無関心だからひとくくりにできるのだ。

東北以外の人々にとって、東北の方言は"東北弁"であり"ずーずー弁"だし、
東北の歴史は常に受動的で、京都・東京の政権に従であった、というイメージしかないだろう。
そのようなイメージの中では、東北のどこであっても同じような風景に映るだろう。
また都会の人々は東北の自然に触れて、ある種の憧れを抱くかもしれない。
しかしこの憧れは、東北を近代化の遅れた地域とみなす意識と、表裏一体をなす危険性がある。
田園風景を見て素晴らしいなと感じても、自分では絶対に農業をしようという発想にならないのだ。
ある意味で"日本的なオリエンタリズム"といえるだろうか。

今回福島の原発問題に際して、どれだけの人が東北の歴史に思いをはせただろうか。
なぜ東京の電力を供給する原発が福島にあるのか、そのことを歴史的に考えた見解はあっただろうか。
歴史的に見れば、沖縄の米軍基地同様の構造があるのだが、そのことに言及している"評論家"たちをいまだ見たことがない。

ある番組で毎週某漫画家が歴史をすかして現代を考察する、というコーナーをやっている。
今週は米沢藩の上杉鷹山だった。
上杉鷹山を解説するにあたって、コーナー中ずっとテロップなどで"東北を救った"などと書いてあった。
あのテレビ番組の制作陣は、米沢が東北すべてを代表できると考えているのだろうか。
そう考えているのなら、東北全体に対して失礼だし、
そこまで考えが至らな(知らな)かったとしても、
ようは東北に対して無関心だということがはっきりしている。

本当に"がんばろう東北"という気持ちがあるのなら、
テレビ局などもヤマトに"従"な東北の歴史ではなく、
ヤマトと戦った"アテルイ"や、渤海や金と独自に交易していた東北の人々を焦点に当てたらいいのにと思う。
歴史を主体的に生きてきた東北の人々をもっとクローズアップできないクセに
"がんばろう東北"などといったところで、ウソくささしか感じられない。

そして同じ日本の東北に、これほど斯様に無関心な人々が"がんばろう日本"といったところで
所詮かっこいいこと言いたいだけなんじゃないのと思う。
その"日本"の中にどのような東北象があるのか、東北以外の人々に尋ねてみたいものだ。

まぁ、東京都知事選で東京都民が石原を選択したことで、所詮東京の人々の東北地方観はその程度のものだよくわかったが。  

Posted by はぬる at 14:27Comments(0)日本とは

2010年10月22日

そろそろ「反日」なんて言葉やめっべず

「反日」なんて言った途端、自分を高みにおいて相手を見下しているんだってことに、なんで気が付けないのだろう。
80年代アメリカで日本車がかなりたたかれたことがあったけれど、その時に「反日」なんて言ったか?
例えば原爆や米軍基地の問題について、アメリカに対して抗議のデモをするときに「反米」デモなんていうか?
韓国・中国の人々が日本に対して頭にきてるときというのは、大抵歴史認識について日本側からおかしなことを言い出したりしたときだ。
今回の尖閣諸島に関しても、オレ自身は、尖閣諸島の領有については日本のほうが中国よりも有利だと思っているけれど、日本と中国が、国民感情を刺激しやすい領土問題について、じっくり交渉できる相手同士になっていないのは、結局「大日本帝国」の行為を、きちんと清算できていない日本という問題が根底にあるからじゃないのか?
ましてや、「大日本帝国」の行為をなかったことにしようとしている人たちが元気な日本の状況をみれば、領土問題に関して純粋な交渉が望めるとは、中国はもちろん、アジアの多くの国が思っていないことは簡単に予想がつくことじゃないか。
領土的野心があるから尖閣諸島を欲しがっているのだとしか受け取られない。日本のマスコミが中国側の思惑に対して邪推するのとなんら変わらないのだ。

さらに言えば、日本のマスコミがよく言う、「反日」教育を受けた人々が「愛国心」でもって、「反日」デモをやるんだ、というのは本当にひどい言い方だ。
「大日本帝国」によって被害を受けた人々が、受けた被害について学ぶことが「反日」なのか?
沖縄戦を教えれば、または、原爆を教えれば「反米」教育になるのか?
このこと一つをとっても「反日」という言葉が、非常にいい加減で、いかに相手を見下している言い方なのかがわかりそうなものだ。
しかし、多くの日本人はこの言葉を簡単に使ってしまう。平気で使う。
さらに一部の人は「だから中国(韓国)はオカシイんだ」「だから韓国(中国)が嫌いなんだ」と続ける。
結局、「反日」云々と口にだした瞬間、中国や韓国の人々と対話しよう、交渉しようという気持ちを、日本人自らが断ち切っているのだ。
そして、自分で理解のための糸口を断ち切っているくせに、中国や韓国などで何か事がおこると、「よくわからない国」だとか、「おかしな国」だとか、「怖い国」というイメージでみるのは相当に自分勝手なことだ。
これから中国はなんだかんだで、アジアの中心になっていく(なっている)。この状況に加え、韓国と北朝鮮がもし統一を果たしたとき、日本人が、現在のようなアジア認識しか持てないのであれば、日本は完全にアジアから見放されてしまうだろう。
そうなる前に自分たちが使っている「反日」という言葉について、もっと深く考えてみるのは無駄じゃないと思うんだけれど。

※ちなみに10月16日に東京であった中国に抗議するデモについて、マスコミが少し報道してたみたいだけれど、このデモに関して「反中」デモという言葉で報道したマスコミは寡聞にして知らない。
デモに参加した当事者たちは「反中」デモと呼んでいたかも知れないけれど。
  

Posted by はぬる at 00:00Comments(2)日本とは

2010年10月11日

人の振り見て…

日本国内の政治的に大事なことや、一部の政党及び思想・考え方を排除して、
人々になるべく知られないようにしている日本マスコミに、
今回劉氏が平和賞を受賞したことについて、
中国で報道が規制されている件をとやかく言う資格はないよね。
  

Posted by はぬる at 01:25Comments(0)日本とは

2010年09月23日

クニと国家とその先は?

以下のブログでコメントのやり取りをするには長くなりすぎ、先方にも失礼かと思い、こちらに掲載することにした。なお文中の個人名はAさんとすることにした。
http://naoki-edamatsu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6a86.html#comments

…………………………………………………………………………………………………………
そんなに難しく考える必要はないのではないかと思います。
今現在の私たちが抱いている「国家」という概念は近代社会に登場したものです。アジアにおいてはたかだか150年程度の歴史しかありません。それ以前のクニの概念が今と違うものであったことは、対馬宗氏が対馬藩として江戸幕府に対応していた半面、朝鮮王朝に対しても、とても近い関係をもっていたこと、琉球王国に対する清と薩摩藩の関係が両立できたこと、倭寇をはじめクニを超えて活躍していた人々がいたことなどからうかがえると思います。こう考えると「国」の概念は固定的なものではなく、非常に流動的なもので今の「国家」という概念も、いつかは変化していくものだということは想像できるのではないでしょうか。したがって国旗が国家を表すと考えるのなら、国旗も非常に流動的なものと捉えるのが自然でしょう。

しかも、日本の近代「国家」という概念は自然発生的に起きたものではなく、誰かが作り出した概念と言えます。それは江戸幕府を倒しヨーロッパと付き合う上で必要があった部分は否めませんが、人工的・急造的であったがゆえに相当ゆがんだものになっています。例えばヨーロッパにおいて、国家が市民を抑圧するときには市民はその政府に対して拒否できる権利をもつことが明文化されている国もあるのに対して、日本においてはいまだに「お上のやることに口を出すな」、「皇室に対する無批判・意味のわからない持ち上げ方」といった封建的な考え方が幅を利かせています。つまり日本社会は明治以来、システムは近代的なものなのに、考え方が封建的だということに特徴があるといえます。そして、日本の権力者(支配層)たちはこのことをおおいに利用してきました。(今でもそうです)
このことを念頭に置いたとき、Aさんの
>一国民同士では仲良くできても国家というよろいを着ると途端にいさかいが起きるのです。
という指摘は正鵠を得ています。なぜならば、国家というよろいを着せていさかいを起こさせる人々が権力を握っているからです。そして、そうすることで利益を得ています。昔はそのことを軍事力に任せて、隠すことなく表に現していましたが、今ではそんなことをすると立ち行かなくなるので、代わりに資本力に任せた経済侵略という形で巧妙に隠しているといえます。

さて、国旗に話を絞れば、まず日本に国旗ができたのは1999年のことです。それまでは(大日本帝国においても)誰かが「日の丸が国旗だ」と言っていたものにすぎません。このことを指摘しておきたいと思います。しかし、日本の場合、「日の丸」を利用したい権力者によって、日本帝国主義の旗とされてしまったわけです。「相当ゆがんだ近代国家日本の、法的に根拠のない、国の旗」というわけのわからない状態になってしまうわけです(近代国家は契約社会ですので法的根拠というのは大切な概念です)。そしてそのことを大日本帝国が強く国民に押し付けてきたことが、今でも「日の丸は日本の国旗」という考えをもつ人々が多い理由でしょう。したがって国旗は決して一個人の表札にたとえられるものではありません。むしろ抑圧のための道具・拘束具と見るほうが自然ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
>時として民族の強いアイデンティティを体現したものということもできるでしょう。
ということも確かにあります。しかしこれも、近代「国家」に対抗するためにできたまとまりを象徴するものとしての意味があるわけで、結局は一個人を「民族」という枠に抑圧する機能をもっているわけです。
さらに、中国の人々が国旗を踏みつけるのには何重にも意味があることでしょう。中国の人々にとって「日の丸」は、どこまでいっても帝国主義の象徴でしかなく、「日の丸」を使い続けるのは、無反省の表れと映っていることでしょう。そこに国家意識を強く刺激する「領土問題」がリンクされれば、「日の丸」に矛先が向くのはある程度理解できる気がします。(もちろん日の丸を踏みつけることに意味をもたせている「中国」側も、近代「国家」の枠にとらわれているという批判ができる)
>それにしても、相手の国旗を足で踏みつける行為は、許されるべきではないと思います。相手の存在そのものを認めない、抹殺に通じる行為だと思います。
と書かれていますが、むしろ「日の丸」を踏みつけることは、「早く大日本帝国なんてものの考え方から抜け出しなよ」というアドバイスなのかもしれませんよ。

大人の対応について、なるほどAさんは双方に求めるつもりで書かれたのですね。そこは私の読み取りが足りませんでした。すみません。ただ、「大人の対応」というのは先のコメントにも書いたとおり、何をもって大人とするかわからない以上、あくまでAさんが考える「大人」でしかありません。そして、さらに問題は目下の者が、目上の者に「大人になれ」とは言わないように、「大人の対応」と言った瞬間に自分を高みに乗せてしまう危険性があります。
日本社会において、韓国・北朝鮮・中国と日本の間で何か問題が起きると、どうも日本を高みに乗せて話すような雰囲気を非常に強く感じています。例えば原爆投下に関して(沖縄の米軍基地にでもいい)反対する活動があったとして、そのデモを「反米デモ」とは言わないのに、韓国などで何か日本に対する抗議活動があると「反日デモ」と平気で言いますよね。
私はこのことにすごく違和感と恐怖感を抱いています。
Aさんがそうだというわけではなく、日本社会全体に「無意識の優越感」があると考えています。そしてそれは、明治以来の近代「国家」が作り出してきたものでもあります。Aさんは「無意識の優越感」についてどう考えますか?
  

Posted by はぬる at 13:59Comments(0)日本とは

2010年09月05日

くだらね

そもそも
民主はダメだと考えている人にとって、小沢だろうが菅だろうがどうだっていい。
っていうか、どっちもダメ。
あくまで民主党の代表選。
民主党員の問題であって、党員でない人にとってはどうだっていい問題。
それをさも国民全体の問題のように放送するマスコミがおかしいのさ。
  

Posted by はぬる at 22:39Comments(0)日本とは

2010年09月05日

NHKの少数政党排除報道に関して

NHKに関してとんでもないことが起きていることを

『“希”動力-袖番号96、伊東勉のページ。』さん
http://plaza.rakuten.co.jp/benitoh/

『村野瀬玲奈の秘書課広報室』さん
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1971.html#comment-top

で知った。

以前、NHKのニュースを見ていて疑問に思ったことがあり、次のようなメールを送って質問したことがある。

……………………………………………………………
5月25日19時のニュースを視聴していて、2点ほど疑問に思ったことがあったのでメールをさせていただきます。
1点目
NHKでは、この時間のニュースにおいて沖縄の問題を「普天間基地移設問題」と報道していますが、何か理由があるのでしょうか。
沖縄において普天間の問題は「日米安保」体制が抱える様々な問題の中の一つであり、「日米安保」体制によって固定化されている「沖縄の基地」の問題の中の一つであって、「普天間基地移設問題」という別個の問題ではありません。むしろ「普天間基地移設問題」という表現を使うことは、問題を矮小化させる危険をはらんでいます。このことは沖縄にある基地の地図を見るとよくわかります。普天間基地以外にも、沖縄には普天間基地の何倍もの基地があります。そして普天間基地においてだけ問題が起きているわけでも、沖縄の人たちが、普天間基地のみを返還してほしいと考えているわけでもありません。
なのに「普天間基地移設問題」という表現によって、問題が矮小化し、沖縄の人々の意見も非常にゆがんで捉えられるのではないか、という危惧を抱いています。
この点に関して、なぜNHKでは「沖縄の基地問題」や「日米安保条約に起因する基地問題」とせずに、「普天間基地移設問題」とするのか説明がほしいです。また、今後この名称を変更する気があるのかどうか、回答がほしいです。

2点目
同ニュースにおいて、福島社民党党首が沖縄に行ったことについて、「一方野党は…」としながら、自民党の見解のみを報道していました。
このことは非常に問題があると考えます。
私個人としては、もともとから自民党と民主党に大した差がないと言う共産党の見解に賛成でした。去年の総選挙の際に「政権交代」が盛んに言われた時にも、大した変化はないだろうと見ていました。そうして実際、鳩山政権は何もできずにここに至っています。(「政権交代」などという、無責任で大げさなマスコミのレッテル貼りに対しても言いたいことはあるのですが、ここではひとまず置いておきます。)こと、「普天間基地移設問題」に関して、民主党は、自民党と全く同じ結論しか出せないでいます。
それなのに、「野党」の見解として自民党のみ報道するのは全く意味がありません。このことは、今日のニュースだけにかぎったことではありません。多くの場合で民主党と自民党の見解を見ることができますが、意見を全く異にするはずの共産党の見解を見ることは稀です。(頻度でいえば、最近は、みんなの党も見ることができるようになりましたが、自民民主とどう違うのでしょうか?)そもそも国会に議席をもつ政党は民主党と自民党だけではありません。ほかの政党を無視して、国会内の多数派である、この2党におおくの時間を割くのは、本当に「不偏不党」と言えるのでしょうか。多数派の意見は何もしなくても耳に入ってくるものです。しかし少数派の意見はよほど努力しないと入ってきません。マスコミの役割は多数派の意見をただ垂れ流す、ということではないはずです。それよりも少数派の意見を、よりたくさん掘り起こして紹介するのが、マスコミの社会的な役割ではないでしょうか。それをせず「野党」として自民党の意見のみを紹介するのはどういうことでしょうか。ましてや、今の国会内において「野党」はひとくくりにできない勢力図になっています。
前述したように、自民と共産をひとくくりにできるはずがありません。その状況で党によって扱いに差をつけるのは、どういった根拠によるものなのでしょうか。説明がほしいです。議席数の差というのは理由にならないのは前述のとおりです。参議院選挙も近いのでなおさらです。むしろ有権者の判断材料を増やす意味でも、少数政党の意見をより多く取り上げるのが本当のジャーナリズムでしょう。
………………………………………………………

この質問にNHKは以下のような返信をくれた。

…………………………………………………………
日頃からNHKのニュースをご覧いただきありがとうございます。
お問い合わせの件についてご連絡いたします。

 普天間基地の移設問題ですが、「沖縄の基地問題」や「日米安保に起因する基地問題」と広くとらえた中での問題であるというご指摘はその通りだと思います。
ただ現在の状況は、総理が5月末と区切って普天間基地の移設に道筋をつけるとしたことから始まっています。その時期が迫る中での日米合意や沖縄などの動き、連立政権内での動きが断続的に出てきておりますので、普天間基地の移設問題という括りで伝えております。しかし広い視点を踏まえて伝える重要性はご指摘の通りで、ニュースや番組などで機会を捉えて取り上げていきたいと思っています。
 それからこうした問題への政党の反応などの扱いについてです。日常のニュースでは時間的な制約もあるため、各党をいつも取り上げることはできません。しかし各党の声を伝える重要性はご指摘の通りであり、総理の沖縄訪問や徳之島町長との会談など節目となるニュースでは、各党を取り上げておりますし、今後もそうしていくことにしています。
 それ以外のケースでは、党によってはインタビューや会見がないことや、ニュースの放送までに取材ができないことも多くあります。また会見があっても、取り上げるニュースに言及していない場合もあります。そうした場合には、インタビューや会見を行った党の中から、幾つか取り上げて放送していますが、時間の制約などから、与党が1党や、野党が1党だけとなるような場合もありますことを、ご理解いただきたいと思います。

今後とも、NHKをご支援いただきますようお願いいたします。
お便りありがとうございました。
…………………………………………………………

この返事をもらった後、NHK のニュースを気をつけてみていたのだが、この数カ月、野党といった場合はほとんど、自民・みんなくらいしか映さなかった。
そこに来て「日曜討論」から少数政党を排除するという。
村野瀬さんの「少数政党を排除するNHKは報道機関ではなくなったといえます。」という意見に同意する。

っていうか、NHKの番組は俺らの受信料からできてるんだよねぇ。
なんで自民や民主の意見を宣伝するような番組に、カネ払わんといけんのよ。
NHKはどんな理屈でこの矛盾を説明するのだろう。
  

Posted by はぬる at 22:35Comments(0)日本とは

2010年06月17日

安保雑感 その2 日本人の戦後史観

 多くの日本人は、戦後日本が世界有数の経済国家になったのは、戦後復興に日本人特有の「勤勉さ」「まじめさ」で取り組んだから、と考えている。50年代の朝鮮戦争による特需で経済の復興の足がかりを作り、64年の東京オリンピックに向けた開発などで高度経済成長期に入り、国際的な地位を向上させていく。「Always 三丁目の夕日」といった映画に人気が出たのは、現在の下降傾向にある日本社会に住む人々が、戦後自らの「勤勉さ」で日本社会を立て直した頃を懐かしんでいるためだと考えられる。何をやっても閉塞状況が打開できない現状では、がむしゃらに何かをすればするほど状況が良くなっていった時期が懐かしく感じられるのは、ある意味で当然のことだろう。
 そもそも「勤勉さ」が日本人特有のものなのかも議論の余地があるが、そこは置いておくとしても、日本の戦後復興や地位向上、経済発展は日本人の「勤勉さ」のみによってもたらされたのだろうか。このことを歴史的に考えてみたい。
戦後、アメリカとソ連の対立がはっきりしてくると、アジアでも陣営分けが進んだ。この中で、1949年の中国共産党の勝利はアメリカにとって大誤算だった。戦後直後アメリカは中国を、アメリカに都合のいい、アジアの資本主義陣営の中心国としての役割を担わせようとしていたからだ。1946~1947年の段階で、国民党の不利がアメリカに伝わると、その役割を日本に担わせようと占領政策の転換が行われる。日本の占領政策は一般的に、民主改革と認識されているがそれは占領期の前半のみで、ソ連の原爆開発や中国の共産化(?)などと期を一にして、逆コースと呼ばれる経済復興に重点を置いた政策に変わっていった。これは、中国で実現できなかったアメリカの思惑を、かわりに日本に担わせようとするものであった。したがって当然のごとくアメリカからは、日本に対して多大な援助が送られるようになる。アメリカにとって社会主義の防波堤としての日本列島および琉球列島は、日本が経済的・軍事的な拠点、沖縄が軍事的な拠点として重要なものになっていった。そういった理由から日本の国際社会復帰が急がれたし、経済復興も積極的に行われた。またその一方で、軍事拠点の位置づけから安全保障条約が結ばれた。
 日本の戦後復興は確かに日本人の「勤勉さ」による部分もあるのだが、何よりもアメリカの思惑によってなされた部分が大きい。そしてその復興は安保条約と表裏をなす。安保体制によって組み込まれた国際社会の中で、ぬくぬくと守られながら、戦後復興を果たしたのが日本社会であって、日本の復興は非常に有利な条件のもとになされたものだった。しかし多くの日本人はこの点についてほとんど無頓着である。
 今、日本が下降傾向にあり、多くの人が高度成長期を懐かしんだり、また日本の国際社会における地位の向上をのぞんだりしているが、厳しい言葉でいえば「日本人の手自ら社会変革をしたことがない、戦後復興も偶然のたまものなのだ」ということをまず意識しないと、どうにもならない。そして安保体制と表裏をなした経済成長では、結局、現在のような閉塞状況は打開できないし、また同じことの繰り返しだということを知るべきだろう。

その3に続く  

Posted by はぬる at 23:17Comments(0)日本とは

2010年06月15日

安保雑感 その1 『ヤマト』と沖縄の溝

鳩山総理大臣が辞任して、菅総理大臣が誕生した。彼が一番最初に語ったことは、「普天間基地の問題に関して鳩山総理大臣の決定を継続する」と言ったことだった。組閣前にすでにこのようなことを言っていた。鳩山首相はこの問題で支持率を急落させ首相を辞めたが、はたして、鳩山内閣の決定を継続することをいち早く表明した菅内閣の支持率は、60%近くと高い水準を保っている。このことは、多くの日本国民が、日本政府が60年以上もの間沖縄に基地を置き続けたことや、その基地をなくすと期待させておいて、それを裏切ったことに対して怒っていたわけではないことを示している。怒っていたのは沖縄県民のみであって、『ヤマト』はそのことに対して特に怒っているわけではなかったのだ。では、なぜ鳩山内閣があんなに支持率を急落させたか。そのことは、また別に原因がありそうだが、ここではふれない。
なぜ沖縄と『ヤマト』にはこれほどの溝ができたのであろうか。『ヤマト』の放送局は一貫して沖縄の問題を「普天間基地移設問題」として報道した。『ヤマト』の人々は、そんな報道もあり、例の問題を単純に「普天間の基地をどこに移すか」の問題としてしか、捉えていない可能性がある。だから、ある程度のなんかしらの結論-それがどんなものであれ-が出さえすれば、そこで問題は終わりと考えてしまう。しかし、沖縄の人々にとっては、そうはいかない。沖縄の人々には「普天間基地移設問題」などという問題は存在しない。たとえ普天間基地がどこかに-それが国外であっても-移設したとしても、沖縄の人々にとって問題は解決しないのだ。沖縄の人々にとって問題が終わる日というのは、安保体制が終わる日でしかない。なぜならば沖縄の問題の根本は普天間も含む米軍基地であり、その米軍基地は安保条約によって根拠を与えられているためだ。『ヤマト』は安保を見ようとしない。そして、安保による弊害を60年間沖縄に押し付けてきた。安保による「恩恵」を受けているにもかかわらずだ。


その2に続く  

Posted by はぬる at 22:37Comments(0)日本とは

2009年12月22日

歴史的なんとか

日本社会って
「歴史的~」って言葉が好きなんだな。
歴史には全く興味がないくせに。  

Posted by はぬる at 21:44Comments(0)日本とは

2009年08月15日

今日は「終戦の日」ではない

特に大日本帝国憲法より日本国憲法に価値を置く人にとっては。

しばらく韓国に行っていた。
韓国でニュースを見ていると、「最近日本では加害の事実よりも被害の事実に重点を置いて歴史教育を行っている。」との報道があった。東京大空襲や原爆投下など確かに大きな被害を被ったことも事実だ。犠牲になった人々や遺族にとってはそういった事実が全てになることもあるだろう。しかし日本は被害だけを受けた国ではないことも事実なのだ。そこをバランスよく教えることが必要ではないのか、ということだった。
さて、その報道の中でこんなことも言っていた。「私たちにとって8月15日は光復節ですが、日本人にとっては終戦記念日であって、戦争に負けた日ではなく戦争が終わった日として捉えられています。」
これは韓国メディアにとって、日本社会が8月15日を敗戦の日と捉えていないことが、ある程度奇異なこととして映った事を示唆している。

実際、日本人の多くは8月15日を「終戦の日」あるいは「終戦記念日」として捉えているが、実のところは大日本帝国が戦争に負けることを受け入れた日なのである。このことによって、大日本帝国憲法の価値観は完全に否定され、日本国憲法が新たに生まれることになる。だから、本当は日本国憲法の下に存在している日本社会としては、大日本帝国憲法が否定されたことは喜ぶべきことなのである*。

しかし実際は「終戦の日」あるいは「終戦記念日」として捉えるのが日本社会の主流になっている。このことは、特に日本によって被害を受けた国々にとっては大きな不安材料になる。
「敗戦」を「終戦」とすること、勝ち負けをあいまいにすることによって大日本帝国憲法の価値観が否定されたこともあいまいになってしまうから、周辺の国々は「実は日本は戦争に負けた(=大日本帝国憲法の価値観が否定された)と思っていないのでは?」と疑心を抱かざるを得ない。また、教科諸問題や靖国の問題、政治家の問題発言など、いろいろ重なりあって「やはり日本は反省していないじゃないか」と確信に変わってしまうのである。

日本は8月15日に「終戦」したのではなく「敗戦」した。そして、それは「大日本帝国」にとっては悲しいことであっても、「日本国」にとって喜ぶべきことなのだ。このことをはっきりさせない限り、いくら「終戦の日」で平和を願う催し事が、日本各地であったとしても全く説得力がない。
また、そういった曖昧さが野放しになる事によって、日本人自らの、日本社会や現代史を見る視座が著しく歪められてしまうのだ。

8月15日は「終戦の日」ではなく「敗戦記念日」として捉えるべきだと思うがいかがだろうか。

*もちろん個々人ではどう捉えようが自由であることに変わりない。だから、「自分は大日本帝国憲法の価値観が好きだ」というのも自由でいい。ただ、この自由に捉えて良い、という価値観さえも大日本帝国が負けたことによって初めて認められたものなのだ。
  

Posted by はぬる at 20:43Comments(0)日本とは

2009年08月09日

日本ってなんですか?東北の人は自分達の言葉をどう思っているか

今までドラクエ9にはまって、更新サボってました。すんません。

とりあえず、まず、現状の確認から。

青森に伊奈かっぺいという人がいる。
彼は青森放送に勤めていた人で、もう定年したらしい。
去年度まで、『るくなす』という東北6県で放送されていた番組にでていた。
彼は青森弁でコンサートなどを開いて面白いことをしゃべる、自称詩人だそうだ。
その彼のネタの一つに、以下のようなものがあった。
以下要約して書く。
・・・・・・
西の人は言葉を直さない。どこに行っても自分の故郷の言葉で話す。
んでも、東北の人は直してしまう。
なんでなんだろう。
夜行で青森から東京に行くと、最初の内は
「なー、何もって来たなや?わさわんつかみへでみれ」
なんて「わー(私*)」だの「なー(あなた)」だのやって、ワイワイやっているのが、
大宮を過ぎたあたりから、「ぼく」なんて言う。
・・・・・・

最近、昔に比べて方言は市民権を得た、と言われる。
確かにテレビなどでも方言が聞かれる場合が多い。
例えば大阪(関西?)の言葉。更には九州の言葉。沖縄の言葉、うちなーぐちも有名になった。
そして、これらの言葉に対するイメージは悪い物ではなく、むしろ面白い、カッコいい、或いはそこまでではなくとも、肯定的なイメージで捉えられることが多い。
しかし、旧態依然のイメージで捉えられている方言もある。
いわゆる“ずーずー弁”だ。
「“ずーずー弁”ってなんだよ?」という批判も実は可能なのだが、それはとりあえずおいて置くとして、“ずーずー弁”の一般的なイメージはダサい、田舎臭い、暗いというものだろう。
否定的なイメージが多い。
敢えて肯定的に言おうと、おばあちゃんの言葉だとか、懐かしいだとか言う人もいるけれど、結局は若々しい、躍動的なイメージは“ずーずー弁”にはない。

まず、“ずーずー弁”や“東北弁”という言葉自体、結構無茶な要素を含んでいる単語だ、ということを指摘しておきたい。
“ずーずー弁”も“東北弁”も一般的には東北6県+αで使われる言葉を全部ひっくるめたものを指すことが多いだろう。
しかし、“ずーずー弁”や“東北弁”と言っても、地方によって方言に大きな違いがあるため、単純に一括りにできないのである。
例えば山形だけをとってみても、内陸には大きく分けて最上地方の方言・村山弁(山形弁)・置賜弁、庄内地方には鶴岡弁・酒田弁といろいろあるのだ。これを十把一絡げに山形弁とは言えないのである。
それを、もっと大きな枠で“東北弁”などと捉えることは、東北以外の地方に住む人々が「知らない」という理由だけで、東北にある様々な地方文化を無視することに他ならない。
以前テレビで関西出身の人が、「東京に来て嫌だったことの一つは、大阪弁という言葉と関西弁と言う言葉を同じニュアンスで使うこと。二つは全くちがうのに。」というようなことを言っていた。それと同じなのである。
従って、以下の考察で東北の各方言を総称する際、“東北弁”という言葉は本来不適切なのであるが、他に代用できる言葉がないため、『』を付けて『東北弁』とあらわすことにする。

先述したように、全国の一般的な『東北弁』に対するイメージは否定的なものが多い。
そしてこのことを一番痛烈に感じ、恥としているのは他でもない、東北の人々である。つまり、「『東北弁』は恥ずかしいものである、特に東北以外の人と話すときには。」と感じる人が多いのである。
そして、その恥ずかしいと感じるのは意識的な部分ではなく、無意識的に感じることが多いように思う。
例で挙げた伊奈かっぺいのネタは、東北の人であれば多くは経験している可能性がある。経験がなくても、「あぁ、んだ、んだ」と納得できるものだと思う**。
西の人にして見れば、「?直さなきゃいいじゃん?」ですむ話だが、実はコレ、ほとんど無意識のうちに「わー」から「ぼく」になってるんだろうなぁということまで、含んだネタなのである。意識的に「わー」から「ぼく」にしていれば「直さない」という選択肢もでてくるが、無意識的に「わー」から「ぼく」になってしまっているため「直さない」という選択ができないのである。
それだけ東北の人は『東北弁』にコンプレックスを感じているのだ。
そしてそのため、若い人たちはどんどん『東北弁』を話せなく(話さなく)なっている、という状況になっている。約20年前の中学生が使っていた、ある『東北弁』の単語を今の中学生が知らない、ということが往々にしてある。

なぜ、こういった事態になったのか、次回はそこに焦点を当てていきたい。

*実は沖縄でも自分のことを「わー」という(人もいる。地方によるらしい)
**だからネタとして成り立っているわけで。
  

Posted by はぬる at 00:31Comments(0)日本とは

2009年07月06日

日本ってなんですか

いわゆる日本とは一体何を指すのか、よくわからない今日この頃。
東北は、しばしば日本であることを否定されることがある。
東北人本人も気づいてないことも多いけれど、例えば歴史的な方言の扱いなどをとって見ても、東北語は日本語の外に置かれる(つまりは否定される)ことが多かった。
今、東北の若い世代で、自分の地域の方言で会話できる奴は、果たしてどれだけいるのだろう。
一人称を“うち”なんていっているのをきくと空恐ろしくなる。
自分らで自分らを外側に追いやって、本人は中心にいるつもり、というねじれた現象が東北で起きている。(そうせざるを得なかった理由があるのだが、それはまた別の機会に。)
東北でこれだから、沖縄文化やアイヌ文化は日本文化の外に置かれているのはまず間違いない。

だが、いわゆる保守の人たちがいう“日本”の枠組みはできてせいぜい150年程度しか経っていないごく最近のものだ。その前、つまり江戸時代(前近代)までの日本は明治維新(近代)以降の“日本”とは別物だ。そのことは、なぜ戊辰戦争がおこり得たかを考えれば、また、琉球王国の立ち位置や、琉球処分の経過を見れば明らかであろう。
だから廃藩置県とは、単にそれまであった藩を県に置き換えた、というものではなく、前近代的な緩やかな集合体を、近代的な枠組みに押し込め、統合したものという意味があるのである。
なのに多くの“日本人”は“日本”や国というものを固定的に考える。本来それらはかなり流動的なものなのに、だ。近代の大日本帝国も今の日本国もそんな流動性の中で成立した一国家に過ぎないのに。
そして国家自体流動的なものなのだから、その国の国旗、国歌も当然流動的なものになる。
だから日本国民にとって天皇や君が代、日の丸は絶対的なものではないのだ。
特にしばしば(日本史の授業の中ではほとんど全ての時間で)日本の外に置かれる東北、沖縄、北海道(アイヌ)の人たちにとっては。

だからこんな記事を見ると、日本人はなぜこうも国家(特に戦争に負けて否定されたはずの大日本帝国)に関わるものを絶対視したがるのか、同じ日本人ながら不思議で仕方ないし理解に苦しむ。

http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-090701X728.html
「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に-上田埼玉知事
2009年7月1日(水)20:03
 上田清司埼玉県知事は1日の県議会本会議で、県立学校の式典で君が代斉唱時に起立しない教員がいることについて「式典のルールに従って模範を示さなければならない教員が模範にならないようでは、どうにもならない」と述べた。その上で「そもそも、日本の国旗や国歌が嫌いだというような教員は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と強調した。

 君が代斉唱時に起立しない教員がいることへの解決法を民主党県議からただされ、答えた。これに対し、共産党県議団は「思想と良心の自由を定めた憲法19条の規定をないがしろにするもので、700万県民の代表にふさわしくない危険な発言だ」とし、撤回を求める談話を団長名で発表した。 

  

Posted by はぬる at 22:01Comments(0)日本とは