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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2013年10月27日

「民族性」と「社会性」

オレは「民族」と「社会」という二つの言葉を明確に区別している。
例えば「アメリカ民族」と「アメリカ社会」は対象がまったく違うどころか、「アメリカ民族」などというものは、その対象になるもの自体存在しない。存在しないものを言葉にしているではないか、と思われる向きもあるだろうが、「アメリカ民族」という言葉は、「焼肉が走ったわりに飛行機を猫が泳いだ」というような文章(文法的には間違っていない)と同じで何の意味もないものだ。
では「日本民族」という言葉はどうであろうか。
一見、意味のありそうな、対象が存在するかのような言葉である。
しかし、歴史的・文化的・地理的に考えたとき非常に深い問題を抱えている。

※ところでこのエントリで、これから先、「日本民族」という言葉を使うが、日本社会において「日本人」「日本民族」「大和民族」は大体似たようなニュアンスで使用されることが多いので、特に断らない限り、「日本民族」は「日本人」「日本民族」「大和民族」を代表している言葉であると捉えていただきたい。

「日本民族」の定義を考えたとき、確実に外れるのは例えばアイヌの人々、沖縄の人々、在日コリアンであろうか。そうではないと感じる人がもしいるならば、既にこの時点で人による状態、つまり「あいまい」な状態になっている。

仮にそのような人はいないとして考えを進める。
東北地方の人々は厳密に「日本民族」といえるだろうか。
明治以降までも歴史経験が中央の政府とは明確に違う。東北には9~10世紀ころまで蝦夷(化外の人)がいて、明確に奈良・京都の人々からは別の存在と捉えられていたのに、また、明治政府に反して違う国家を作ろうとまでした人々なのに、本当に同じ「日本民族」といえるのだろうか。また、逆に中央の政府は東北の人々をどこまで同じ民族の人と捉えてきた(いる)だろうか。

これは京都・奈良の人にとっても同様である。
日本列島に住む人々のうち、どれだけの人が「他民族」の影響を受けずに今日まで純粋な「日本民族」として存在しているだろうか。
断言するがこのような者は一人としていない。天皇とて例外ではない。天皇家の血筋、天皇家の伝統的な文化は長い歴史の中で絶えず「他民族」の影響を受けずにはいられなかった。これは「他民族」も同様である。
結局、「民族」は互いに融合しあい、影響しあうものなのである。そう考えたとき、「日本民族」と「他民族」を明確に分けるものは何であろうか。

さらに日本の文化も一様ではない。東北の中にすらさまざまな文化がある。その差に大小はあるが、違いが確実にあるのだ。「日本民族」を定義するなら、どこからどこまでの違いが「日本民族の文化」として許容されるべきか、考慮されなければならない。
方言とて同じである。
「しゃますすんなねがら、ちょすなず。てしょずらすいな。」は日本全域では通用しないが、ごく一部の日本人が使う言葉である。
どこからどこまでを「日本民族の言語」とするか、考慮されなければ、「日本民族」は定義できない。
しかし、そのようなことは不可能である。
文化の違いというのはきちっとした垣根があるのではなく、グラデーションのようになだらかな違いであらわれるからである。
(これらのことは過去のエントリーで幾度となく指摘しているので参照されたい)

このようなことから、オレは「民族」とは実体のない、幻想だと考えている。人によってさまざまであり、定義できない「あいまい」なものであり、本来意味を持たないものなのだ。

ちなみに「本来」、とつけたのには理由がある。本来意味を持たないものに、意味を持たせることで利益を得るものがいる、ということだ。
それは、国民国家として国民がひとつのものである、となったときに利益を得る者…時の権力者や、権力者と結びついて利益を得る者がそうである。たとえば資本主義の社会においては資本家、それも大資本家がその一例である。

さて反面、「社会」という言葉は、はっきりとした定義づけが可能である。
例えば「日本社会」は『日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体、および、日本国憲法の及ばない地域に住んでいても、「日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体」の影響を強く、長く受けたもの同士が集まって作り出す共同体』といえるだろうか。(もっといい定義づけがあると思うが、とりあえず)
原理的に「社会」にはマイノリティが包括されているため、「民族」という言葉で表したときに排除される傾向が強いマイノリティも「社会」では排除されない。
また「社会性」は変革が可能である。「民族性」は「民族」が実体のないものであるがゆえに、原理的に変革は不可能であるが、「社会性」は「社会」が示す対象がはっきりしているために、その対象が努力をすれば、変革は充分に可能なのである。

このように、「社会」と「民族」は明確に違うものである。
したがって「日本社会」と「日本民族」は区別されるべき言葉であるし、そもそも「日本民族」も「アメリカ民族」と同様、意味のない言葉なのである。
そういうわけで、オレは過去エントリーにおいて「民族」という言葉で論を進めてはいない。(はず。)
そして、日本社会において「民族」、とりわけ「日本民族」という言葉を使うことに無批判であることは、「民族」や「日本民族」という言葉で得をするほんの一部の人間を利することだと考えている。
もし自分はそんな言葉で得をすることがない、というのであれば「民族」という言葉には警戒すべきだろう。
  


Posted by はぬる at 23:11Comments(0)雑感・いろいろ