2013年01月20日

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 3

2.北方氏の持つ矛盾性
北方氏は「演義という形で書かれた『水滸伝』を、現代日本語に訳することに、私は何の意味も見出せなかった。」という。中国文学者でもない一介の小説家である北方氏に原典の日本語訳など期待しはしない。また、日本語訳になっている原典をもとに、北方氏の解釈の小説水滸伝を書くことに何ら問題はない。しかし、水滸伝のタイトルを冠しキャラクターも使うのなら、逸脱してはならない部分は確実にある。あるいは原典を解体して新たに構築するなら、水滸伝のタイトルを冠したり、キャラクターを使ったりするのは避けるべきだった。「『水滸伝』を、現代日本語に訳すること」に意味を見いだせないのならなおさらだ。
「自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。」というが、原典を逸脱して水滸伝を壊すことが「作家という創造者の矜持」なのか。原典の枠組みの中で、意味の見いだせない水滸伝の日本語訳に意味を持たせるのがプロの作家の仕事であり、それこそが「作家という創造者の矜持」ではないのか。あるいは原典を大きく逸脱した自分の水滸伝を世に出そうとするなら、水滸伝のタイトルを冠せず、水滸伝のキャラクターも使わないで勝負するのが「作家という創造者の矜持」ではないのか。
つまるところ、「自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。」等とかっこいいことを言ってはいるが、自身の『水滸伝』を出す際、現代日本語訳にすることに意味を見いだせない水滸伝に頼っているのである。
蛇足ではあるがオレは趣味でマンガを描いている。20年ほど前、水滸伝、ハイスクール奇面組、ドラクエ3及び4にはまっていたオレは自分の『水滸伝』を描き上げた。今は1300ページ分の分量になる第3稿目が終わり、第4稿目を描いている。人に見せるものではないので好き勝手に描いているのだが、タイトルは「夏天故事」とし、108人いる主人公たちも水滸伝のキャラクターをそのまま使ってはいない。モデルにした登場人物は多いが、名前まで一致させることはなかった。水滸伝というタイトルで、キャラクターの名前まで一致させるという発想がなかったからだ。しかし水滸伝好きが読めばにやりとする部分が結構ある。
北方氏の「私の中で『水滸伝』は変質し、別の創造物としての再生の時を待っていたのだ」という気持ちはよくわかる。オレが「夏天故事」を描き始めたのも、今思えば同じ気持ちだったからだ。だが、オレの中で水滸伝が「変質」し、「別の創造物」になった「夏天故事」は、どこまでいっても「夏天故事」であって水滸伝ではないことを知っていたため『水滸伝』のタイトルもキャラクターも別のものとしたのである。
(続く)



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